翌朝、暗いうちに四人は目を覚ました。
敷地に張り巡らされた結界に侵入した何者かがいたからだ。
「人影が見える……誰だろう。大人みたいだ」
「セトかな?」
「ミーナは一緒じゃないの?」
「あれ、セトだ。セトが帰ってきた!」
シロウが急にあげた大きな声に他の三人がビクリと肩を揺らす。
「セト!」
玄関へと駆けだすシロウの後を追い、玄関ホールへと向かった。
確かめもせずドアを開け放ったシロウの目の前にボロボロの服を纏ったセトが立っていた。
「セト……大丈夫か?」
「酷い怪我……治せなかったの?」
いつもその整った体系をぴっちりと覆ってるスーツはなく、青白い簡素な服を着ていた。
それすらも血と泥に汚れ、酷いありさまだ。
「みんな、良い子にしてたかい?」
「そんなこと言ってる場合かよ!ユーリ、サヤ。サンルームのソファを並べて、その上に布団を置け。シロウ、お前は大きなボウルか鍋に水を入れてくるんだ」
ふらつくセトを支えながらダイが指示を出す。
それぞれ言われたとおりに散ってゆき、ダイはセトを支えながらゆっくりとサンルームへ向かう。
内心ではこの怪我でよくここまでたどり着いたものだと驚いている。
セトが治癒を得意としているからこそ、だろうか。
「できたわ……セト、肩を貸して」
「シロウ、これは私が運ぶからタオルを持ってきてちょうだい」
まるで野戦病院だ、とセトは思う。
正直、自分が生きていたことさえ奇跡に近い。
一度は重体として病院に収容され、それでもどうにか担当医師に暗示をかけて軽傷と診断させ退院してきたのだ。
あの騒ぎでは抜け出せば問題になるだろうし、面倒な処理がこれ以上増えるのはごめんだった。
「……ミーナは?」
「わからない。あの倒壊に巻き込まれたんだ……テロだと言っていたが、あれは十中八九……」
上層階に聖杯戦争のマスターが滞在していたことは知っていたが、それゆえに安全だろうと考えていただけに今回の事件は予想外だった。
目立つ行為を控えるのが常套の魔術師とは違う、魔術師が何たるかを知っていて手段を選ばない───自分達と同じ気配があった、とセトは思う。
「こちらに不審なことは?」
「うん、なかった。あ、でも……」
「何か?」
「いや……セト達が帰ってこなかったから『家』に連絡を入れたんだ。だけどこっちには何も連絡とかなくて……」
「ああ、それでか。こちらには昨夜、連絡があったんだ。かろうじて電話が生きていたから良かったけれど」
酷い状態の衣服を引き剥がしバスローブでくるむ。
大の大人相手でも子供たちは臆することは無い。
こうした経験は『仕事』でやることもあったし、『家』で年少組の世話をすることもあった。
傷の一つ一つの具合を確かめながらセトの指導のもと魔術薬を使用する。
「ミーナ……大丈夫かな」
一通り処置を終えてダイは呟いた。
『仕事』に出向いたまま帰ってこなかった仲間を知らないわけではない。
大抵はその場で身請けされることが殆どで、生死がわからないということはなかった。
「生きてはいるだろうね……バイタルサインが停止すれば、術式が止まってアロン先生が感知する。それならこちらにもお叱りが飛んでくるだろうから」
未だ瓦礫の下にいるか、どこかの病院に収容されたか。
いずれにしても状況は暗いままだ。
「怖いわ……」
ユーリが窓の外を見ながら呟く、不吉な力の流れは他の子供たちにも感じ取れていた。
おそらくは聖杯戦争の脱落者が出たのだろう。
大きな魔力が何かとてつもないものに汲み上げられていくのがわかる。
「まさか、こんなに派手にやらかすとはね。魔術師が聞いてあきれる。聖堂教会はどう説明をつけるつもりかな……テロで片付けるにも限界があるだろう」
セトは一人ごちて、心配そうに覗き込むサヤとシロウに微笑む。
「潮時だ、帰還しよう……ミーナの回収は仲介人に任せる」
「……いつ帰るんだ?」
「少し時間をおかなきゃいけないね。何より状況が混乱している。自衛隊をはじめ国家機関も介入してきているらしいし、すぐにここを離れるとこちらに罪をなすりつけられかねない」
ホテルに不審な出入りがあったかを調べられればブルシュティンの名前が挙がることも考えられる。
直後に冬木を発つのは賢明な策ではない。
「その間にミーナが返ってくるといいけど……」
そう呟くセトだが、おそらくそれが無理であろうことはこの場にいる誰もがわかっていた。
「希望を持て。生きてさえいれば未来は開ける」
セトはそう笑い、子供たちの頭をくしゃくしゃと撫でた。

それからしばらくセトはこん睡状態になっていた、失血が相当あったらしい。
ここにきて感応能力が本格的に開花し始めたユーリが、サーヴァントが残り四体と言った辺りから冬木市全体が不穏な空気に満ち始めた。
市街地だろうと僻地だろうと、派手に戦闘を繰り広げるそれは着実に街の雰囲気を乱している。
未遠川が干上がったことと倉庫街が壊滅的被害をうけたこと、また市街地での自衛隊機の撃墜事件は日本中に衝撃を与えた。
テロと縁遠い日本においてこれだけの実損が明らかになるともはや地方の一都市の事態とは言えなくなる。
しかも歴代のそれと異なり聖杯の成熟は順調過ぎるほど、数日とおかずこの地に聖杯が現れるのは必至であった。
聖杯出現以前に冬木を離れろ───それが『家』から下された唯一の指令。
聖杯そのものに価値を見出さないブルシュティンにとって、聖杯の奪い合いで危険な状況下にある場所に優秀な実験体を複数置いておくことを危惧していたのだろう。
地道に研究を積み重ねてきた彼らには当然のことだった。
ミーナの所在は未だつかめていないが『家』で彼女の生存が再度確認され、子供たちの不安は一応おさまったかに見えた。

一つまた一つと消えゆく英霊。
聖杯の出現地は新たな霊地に定まったらしいと気付いたのは聖杯出現の直前だった。
セトと子供たちの隠れ家がある丘を下ったあたりがそれで、霊脈が複雑に絡みあい濃密な大源に満ちていくのが時間単位で感じられるほど。
「起きたの、シロウ?」
やっと起き上がれるようになったセトと入れ替わるように寝込んでしまったシロウを看ながらサヤが尋ねる。
熱っぽい身体と浅い呼吸、風邪のように思える症状もすべては過剰な大源に浸ったがゆえ、魔術回路が言わばショック状態に陥ったのだ。
「……にもつは?」
「ダイがまとめてくれたわよ、安心して」
「そっか……ごめんな」
「大丈夫よ。それにシロウ、凄いのよ。セトとダイが測定結果にびっくりしてたもの……きっとアロン先生も喜ぶわ」
よかった、と呟いて少年は瞼を閉ざす。
身体を内から焼くような鈍痛、泥沼に引きずり込むような何か自身を絡めるモノ。
大源とは違う何かを感じながら、それを説明できずにシロウは意識をさまよわせる。
「いついくんだ?」
「今夜発つの……専用機の準備が整ったんですって」
「専用機ってお金いっぱいかかるんだろ」
「マイナスにはなってないってセトが言ってたわ」
シロウの結果だけでもプラスよ、とサヤが笑うのにつられてシロウも笑った。
「寂しい?」
「何が?」
「シロウはここにいたんでしょ?」
「そんなの覚えてないさ。でも、街を見下ろす景色は……懐かしい気がする」
「このあたりに住んでたの?」
「……わかんない」
カジミエジュの『家』も小高い丘にあったからそれに似ているだけかも、と思いシロウは口を閉ざした。
それを舌が乾いて喋りにくいのだと勘違いしたサヤがグラスに水を注ぐ。
シロウはあえてその誤解をとくことはせず、受け取ったそれを飲み干した。
「サヤはさびしい?」
「え……?」
「家に帰りたい?」
皆あえて口にしないそれを、シロウは尋ねた。
普段なら聞かないことだったが、熱に浮かされて漏れた疑問だったのかもしれない。
「妹と弟には会いたいわ……とても仲が良かったの。シロウの兄弟は?」
「いなかったって聞いてる。セトが調べてくれたんだ」
それはシロウの固有結界という特異な能力に対する調査の一環だったが、結局少年のルーツは不明なままだった。
「そう……ご両親には会ってみたいと思う?」
母親に会うことはもう叶わないだろう、降霊術を習えばもしかすると可能かもしれないが、会ってそれからどうするべきなのかもわからない少年にはそんな欲もない。
ただ父親は生きていると聞いていた。
もしかしたらどこかですれ違ったかもしれない。
でも黒髪ですらなくなった子供を自分の血をひくものだとは思わないだろう。
「……親って何なんだろ……サヤはわかるか?」
「ううん、わからない。何なんだろうね」

ミーナのことを除いて、帰還準備はすべて滞りなく進んでいた。
セトも復調し、シロウも具合が悪いなりに一人で身の回りのことができるようになった。
ずいぶん遅い時間になって迎えが来た。
いつもの白いリムジンではなく、黒っぽい国産のセダンだった。
運転手はいつもの男ではなかったが、いかにも運転手といった風体で静止するなりさっとドアを開けた。
「うわっ!」
「大丈夫ですか?」
よろめいたシロウがこけ、あわてて運転手が駆け寄る。
「うーん……だいじょうぶ。セト、いたいのいたいのとんでけー、して」
「はいはい。痛いの痛いの飛んでけー」
しゃがみこんで擦りむいた膝を撫でるセトの耳にシロウが何かをささやく。
「……これでいい?」
「うん、ありがと」
子供たちを後部に乗せ、続いて助手席に乗り込もうとしたセトのポケットからペンが落ちる。
「ああ、いいですよ。自分で拾いますから」
にっこりと笑むセトに運転手は恐縮して頭を下げた。
車体の下に転がったペンをとると、セトはわずかに眉をひそめて車内におさまった。
「ヘリポートで宜しいのですか?」
助手席のセトが頷くのを確認して男はアクセルを踏む。
上流階級を相手にする仕事ゆえに、ワケアリな客でも余計な詮索をしないことを徹底的に教育されていた。
それでなくても折からの治安悪化がある。
海外から来たという彼らが冬木の街から退避するのはむしろ当然のことだと男は納得している。
「……なんだったの?」
「珍しい虫がいたんだ、見てたらこけた」
小声でたずねるサヤにシロウはあっけらかんと答えた。
「もう、気をつけなさいよ」
ダイの膝に乗るシロウの頬をつついてサヤとダイが笑う。
ユーリはバックミラー越しにセトに目配せを送り、両手の人差し指をさりげなくクロスして見せた。
クロス……聖堂教会を意味するサインにセトは眉間の皺を増やした。
直接攻撃ではなく虫……発信器を付けたあたり、代行者の仕業ではないのだろう。
代行者であればこんなまどろっこしい手は使わず直接向かってくるに違いない。
何より無力に近い子供たちを四人も抱えた戦闘能力の無いセトなど、赤子の手をひねるようなものだ。
諜報されているだけということは、こちらの動向を探りたいだけなのか。
聖堂教会の諜報能力は高い、とっくに専用機を調達したことも知れているだろうから帰還の途についたことなどわかっているだろうに。
いくら教会に『献金』しているからと言って絶対安全というわけではない。
多少の事を見逃してもらえるだけで、何かやらかせば即殲滅されてもおかしくはないのだから。

「あれ……様子がおかしいですね」
車を走らせて洋館のある丘を下っていると、夜半にも関わらず前方が明るい。
繁華街とは違いビジネス街と住宅街が入り混じるその辺りは、薄気味悪い明るさに包まれていた。
「なんでしょうね、お祭りがあるとは聞いてませんでしたが」
笑いながら首をかしげる運転手だったが四人は身を固くした。
人工的な明かりとは明らかに違う明るさ───それは濃密な大源が目に見えるほどになっていることの表れだった。
一般人には感じ取れないだろう緊迫した空気に最初に気がついたのはセトだった。
「すみません、ここは迂回して山の手から行ってください」
「それでは予定の時間に遅れてしまいますが……」
「構いません。近頃こちらは物騒だと聞きますし、子供たちが怖がっているので」
新都を突っ切って高速に乗れば目的地まで三十分とかからないが、セトが言うそのルートでは一時間以上かかってしまう。
後部席でひっそりと静まり返る子供たちの様子に運転手は頷き左にウィンカーを出した……その時だった。
鼓膜を貫く高音。
「──────ッ!Opiekuqczo!」
まずい、と思った時には既に身体が浮いていた。
車体ごと吹っ飛ばされ、気がつけば中央分離帯を越えて反対車線で横転していた。
セトが咄嗟に守護の術をかけていなければ相当なダメージを受けていただろう。
「……大丈夫かみんな?」
セトの声に答えたのは子供たち三人、運転手は意識を失っているらしい。
「怪我はないみたいだ……申し訳ないけれどこのまま僕たちだけ脱出しよう」
幸いリアガラスが割れていてそこから抜け出すことができた。
セトは自力でドアを開け、ダイはユーリとサヤを引っ張り出し、最後のシロウに手を伸ばした。
「何やってるんだシロウ、早く出てこいよ」
先ほどから一言も声を発さない少年にさては怪我でもしたのかとセトは覗き込むがまったくの無傷、どこかをぶつけた様子もない。
ただのショック症状だろうか。
ダイにかわってセトがシロウを抱き車外へと救出した。
出るなりセトに抱きついたシロウを二人の少女が慰める。
「大丈夫よ、私たち以外には誰もいないわ」
そんな言葉にシロウはひたすら首を横に振る。
「はやく……かえろ」
「わかったよ。仕方ないけど駅まで歩かなきゃいけないね」
五人が歩き始めようとしたその時、また地響きがした。
「いよいよ最終決戦、かな」
「聖杯戦争が終わるの?」
「どうだろうね……過去三度の戦いではいずれも聖杯を得ることはなかったと聞いている。今度こそという思いはあるのだろうけれど」
願望機に興味のないセトには命を賭してまでそれを得ようとする魔術師達の気持ちがわからない。
「さあ、行こう……これ以上ここにいては巻き込まれかねない」
この近くに聖杯の出現地の候補があった筈だとセトが口にしようとした時、三度目の地響き。
立っていることすら困難なその縦揺れにみな膝をつく。
「気分が悪いわ……」
ユーリが青ざめた顔でそう呟く。
揺れで気分が悪くなったのではない、クライマックスを迎えた聖杯戦争の余波を感じ取ってしまったらしい。
シロウをダイに預け、セトはユーリを抱き、サヤの手を引いてまだ横揺れが続く道を進む。
あれほどの揺れがあったというのに不気味に静まり返った街。
どこかで電線が切れたのか街灯はすべて落ちていた。
星明かりをたよりに暗い街を歩く。
「セト、シロウの様子が変だ!」
シロウを抱いていたダイがあわてた様子でセトの服を引く。
「おかしいんだ、なんか熱い……魔力が暴走してるみたいなんだ」
「なんだって?」
「……大源が濃すぎるのよ、早くここから離れて。私は自分で行けるから、先に行って……でないとシロウが壊れちゃう」
セトの腕の中でユーリが呟く。
「ねえ、お願いよセト。シロウが壊れちゃったら大変なことになるの」
感応能力に優れたユーリには何かが感じ取れているのかもしれない。
けれど子供たちを放っておくわけにはいかない。
大事な研究成果であるしビジネス材料でもあるし、何より『家』の仲間だ。
「……セト、シロウだけ連れて先に行ってろよ。ユーリは俺とサヤで連れてくから」
「そんな、君たちだけだなんて危険だ!」
「駅のロータリーでいいだろう?あそこなら何度も通ったからわかる」
「そうよ、ユーリのことは任せて」
シロウはぐったりとして虚ろに視線をさまよわせている。
固有結界を利用して無限に魔力を貯蔵することを目指していたが、今はブラックホール化しかけたそれが暴走を始めているようだ。
放っておけば身体がもたないと判断し、セトは三人の子供たちに目線を合わせる。
「いかなることがあっても、生き延びること……いいね」
「大丈夫だよ、アロン先生の研究も持ち出させない。その為に自己強制証文を作っただろ?」
子供たちは『家』を離れる際には必ず自己強制証文(セルフギアス・スクロール)を作成する。
命の危機に瀕したり、敵対する者にとらわれた場合には全ての魔術的機能を休眠状態とさせるものだ。
休眠と言うからには、再起動させる方法はある。
一つは埋め込まれているアロンの術式……いわば疑似的な魔術刻印が消滅した場合。
そもそも自己強制証文は魔術刻印に働きかけるものであるから、刻印が消滅さえすれば呪縛から解かれる。
これはアロンが死去すれば自己強制証文が解除される仕組み。
もう一つの方法は属性付加による。
擬似的な魔術刻印はその性質上、無属性でなければ保持することができない。
つまり何らかの属性がついてしまえば刻印は瓦解してしまう。
「……セトこそ、ちゃんとシロウを守ってやれよ」
「ああ、大丈夫だよ」
ユーリの強い視線にセトは頷き、ダイからシロウを抱き上げ、夜の街を走り始めた。
「じゃあ、後でな!」

「……あの子を逃がしたの?仲間思いね」
誰もいなかった路地から女がクスクスと笑いながら現れる。
「どうせ、皆でここから抜け出せる確率なんてゼロに近かったからな」
「捨て身の覚悟……嫌いじゃないわ」
「あなた、代行者じゃ……?」
「異端狩りは私の仕事じゃないの、ただ今回は上の命令でね……あなたたちを捕獲するように言われてるの」
悪く思わないでね、そうニッコリと微笑んだシスターとは別にいくつか大人の影がある。
その服装からいずれも聖堂教会の手のものだと知れた。
また酷い揺れ……それと同時に双方の影が動く。
足場が悪い時には重心が低い子供の方が有利だ、しかし聖堂教会の者たちも並みの人間ではない。
子供たちは本能的に街の中心部へと走る。
今は危険極まりないそここそが活路を見出せる唯一の場所だとわかっていた。