少年の身体が傾いでいく。
それと共に向かい合わせていた少年の身体も崩れ落ち、夥しい量の血液が噴き出した。
『な…んなんだ、おまえら……なんなんだよ!おまえたちもボクたちを邪魔するの……?オット、オット───倒れてる場合なんかじゃないよ、こいつらも消さなきゃ!』
金髪の少年が振り返ってそう叫ぶが、そこには老人と少年が二人、真っ赤に染まって横たわるのみ。
答える者はなかった。
───否、いるには……いる。
ただ、金髪の少年が期待したものとは違う、もう一人の金髪の少年のもの。
「ふふ……なあ〜んだ、そういうコトでしたか。なるほど、道理で今までわからなかった筈です。ねえ、想像していた以上に好転したじゃないですか、マスター?」
問いかけには答えず、修道士達とは異なった黒衣の男はうっそりと笑む。
言葉が通じていなくとも自分が相手にされていないことなどわかる。
頬を真っ赤に染めた少年は、異国の言葉を話す少年から一歩退きながら鼻にしわを寄せて威嚇する。
『なんなんだよ……なんなんだよ!オット……オット───起きろよ!』
「うるさいなあ、ちょっと静かにしていていただけませんか?」
ざわ、と空気が揺らめくのを感じた。
しかしそれは驚愕に目を見開く少年には、精霊達の恐怖の表れであることがわかる。
相手が精霊ですら敵わないと平伏す存在……それは、少年の感覚では『神』以外にあってはならないものだ。
しかしどう見ても相手は己と同じくらいの少年で、なんら普通のヒトと変わりなく見える。
『オマエ、何……なんだ───!?』
言葉が通じない相手に言っても無駄だとわかっていても、言わずにはいられなかった。
そんな少年を振り返り、金髪紅眼の少年は屈託なく笑う。
『ボクは、う・る・さ・い、と言ったんですよ』
流暢なイタリア語は、果たして少年に伝わらなかった。
理解するより先に意識を失った為だ。
「さて。この場合、罰せられるべきは誰なんでしょうねえ……」
ボクはわからないのでお任せしますよ、と紅い目を細めた少年───ギルガメッシュは傍らに立つ言峰綺礼を見上げた。





間もなく日曜正午のメッサが始まる、皆あわただしく着替えを始めた。
日曜正午のメッサは正装で参加することが定められていて、ノヴィッツィオの俺達はすその長い赤いカソックの上に白のサープリスを被る。
数日前の事件など微塵も感じさせない、いつも通りの光景だ。
隣のベッドはマットレスが外されていた……既に見慣れた光景となりつつある。
休みに入ってそれぞれマストロについたり他所へ出向いている生徒も多く、廊下に整列する生徒は少ない。
いつもは先陣を切って歩くダリオがいない為、学年次席の少年が皆を誘導する。
隣を歩くステファノはカソックの詰襟を居心地悪そうにいじりながら、しきりに暑いとぼやいていた。
ステファノも明日から西洋武術のマストロについて修行に出かけるのだと聞いている。
『シーロ、おまえさ、よくそんな涼しい顔してられるな……』
『日本の夏はもっと蒸してて暑いんだ、こんなの涼しい方だぞ?』
『うげぇ……日本にだけは行きたくねー!』
あの事件以降、変わったことが四つある。

カミッロがいなくなったこと。
オットがいなくなったこと。
マエストロ・アウグストがいなくなったこと。
ロッサ・アッセンブリが封鎖されたこと。

───大きく変わったように見えて、その実、変化は少ない。
聖歌隊は次席指導者だったマエストロ・ジャコモに任されることになり、歌唱練習などはロッサ・アッセンブリの代わりに聖母の祈りの間(アッセンブリ・リリアーレ)が使われている。
わずかに顔ぶれが変わっただけで、日々のメッサは執り行われている。



前代未聞の不祥事。
幸いにも死者はいなかったが、聖域での聖職者の淫行……それも少年への性的暴行という二重三重の不祥事は、緘口令が敷かれたにも関わらずすぐに知れ渡った。
皆、聖書が示す姦淫と男色の罪を知っている。
具体的にソレがどのようなことかわからない若年層でも、ソレが罪だと知っている。
意図的に作り上げられた狂信者の集団の中でこの不祥事は排除すべきもの以外の何物でもない。
かろうじて外界へは漏れなかったものの、事件の翌朝には聖堂教会本部の教化監察が入り、関係者は二日がかりで聴取された。
もちろん、俺もその一人───特に近くにいたとあって、教化監察官が到着して間もなく意識を取り戻した後は、三人の監察官に囲まれ不眠不休の尋問だった。
カミッロの様子、オットの様子、マエストロ・アウグストの様子、そして……俺の───。
異端審問に処せられれば『異常』な俺はすぐに抹消されていただろう、それだけされてもおかしくないくらい、俺は『異常』だった。
それは自分でもわかっている。
意識が途切れる間際に見た光景は幻ではない。
確かに、オットの身体を貫く鋼の感触を俺は身をもって感じていた。
何故と思うことよりも、カミサマに許されない存在だとしたらどうしようという恐怖が勝った。
カミサマのキセキで救われた自分が、存在するべきでない存在なのだとしたら、俺は消えてしまわなければならない。
聖庁裁判所に送られて審問されるのだろうか、それとも代行者によって狩られてしまうのか……カミサマに一度は救われた命だから自らそれを絶つことはできない。
聴取の後、小さな祈りの間に籠り懺悔をしていた。
夏とはいえ夜は冷え込む石造りのそこで一夜を明かしたけれど、カミサマの言葉は聞こえない。
特別な能力などひとつもない、ただ異常であるだけの自分。
窓一つない祈りの間の扉が外から開かれたのは尋問から解放された翌日───七月十三日金曜日の早朝だった。

「士郎……起きて下さいよ、士郎」
揺さぶられる緩やかな振動に目を覚ました俺の視界に見えたのは、金髪の少年だった。
「ん……?」
「風邪引いてないですか、こんなところで寝てたら身体が痛くなったでしょう?」
久しぶりに聞く柔らかい響きの日本語。
思わずその少年───ギルに抱きついた、小さくて細いけど、あったかい。
「朝ごはんができてますよ、行きましょう……ね?」
「ごはん食べたら、俺は殺されるのか?」
「そんなことボクが許しません。士郎はおとがめなし、ですよ」
「でも、俺───!」
なおも言い募ろうとしたが、俺の腹が不格好に悲鳴を上げた。
そういえば火曜の夜に倒れて以来、野菜スープと温かい山羊乳を飲んだだけで固形物は何も口にしていなかった。
「ボクたちが泊まってる部屋に用意してもらってますから、行きましょう。ね?」
ギルの手に引かれて立ち上がった。少し上にある目は優しげに細められている。
「俺、異端指定されたんじゃないのか?」
「そもそも士郎には何も悪いところなんて無いんですよ、誰だって傷つけられたら自分の身を守るでしょう?」
人気のない廊下を選んでいるのか、客室へ向かう間、誰ともすれ違うことがなかった。
化け物を見るような眼で見られたら、と恐れていた俺は少し肩すかしをくらった気分だった。

半年前、綺礼が来た時一緒に寝たあの部屋へ入ると、またお腹が鳴った。
「祈りは済んだか?」
「綺礼───!」
聖職者らしくカソックを纏った綺礼がソファに腰かけていた。
黒色の瞳だけでこちらを見た、不機嫌そうに見えたけど僅かに口角が上がっている。
「お前が自殺するのではないかと心配していた少年がいたぞ」
「……自殺なんかしないよ、そんなこと許されないだろ」
綺礼は何がおかしいのか肩を震わせて笑っている。
「朝食にしよう、話は後だ。昼のミサからは参加しなさい……」
「ミサ、やってるのか?」
「昨夜から通常通りに……サボったお前は便所掃除らしいぞ」
「え……」
てっきり俺みたいな要注意人物は懲罰房に閉じ込めておくか、別のどこかへ引き渡されるのだと思っていた。
「何を驚いている、見習い修道士が課業をサボっていては話にならないだろう」
「でも俺、異端審問とかされるんじゃないのか?」
尋問では何度も俺の身体から刃が生えたという点について尋ねられた。
あり得る筈のない事は、良いものならば神授の能力、悪いものならば異端として扱われるのが常。
人を傷つけてはならないのにそれをしてしまった俺は、悪いものに違いないのに。
「勘違いしてますね。士郎の力は悪いものではありませんよ。ただ、士郎が使い方をわかっていないだけで」
「ちから……使い方?」
今まで何をやってもダメで、努力しても「それ以上」が望めなかった俺。
そんな俺に、特別なものがあるというのだろうか。
「日付が変わり次第レオナルドの部屋で魔術回路の安定化の為の儀式を行う。いいな」
「いきなり何だよ」
「本当ならば今日のうちに済ませたかったが、生憎今日は『日が悪い』。ドン・ピエトロに掛け合ってみたが、魔術的儀式を執り行う許可は得られなかった」
だからいきなりではない、と言う綺礼は記憶の中のそれと違わずうっそりと得体のしれない笑みを浮かべている。
久々のそれに何故だか身体の力が抜けた。
変わらない……いや、少し髪の毛が伸びたかもしれない。
眉下まで伸びた前髪に手を伸ばすと闇色の目が俺をひたりと見据えた。
「髪の毛、切らなくちゃだな……目に入りそう」
「ああ。髪の事など気にかける余裕がここ暫くは無かったからな」
「そんなに大変だったのか……綺礼が自分に無頓着になるくらい?」
「聖堂教会内部が少々ごたついていてな……その煽りを食った形だ。今回のマエストロ・アウグストの件でまた情勢が変わることになりそうだが」
喉を震わせて口角を上げる男の表情は愉悦、というのだろう。
酷く嬉しそうで、きっと良いことなのだろうと思った。

「……それでさ、俺、魔術……使えるのか?」
「おや、覚えてないんですか?」
俺が綺礼と話している間に朝食をテーブルに並べてくれていたギルがクスクスと笑いながら俺に言った。
「一時的にとは言え、あなたは高度な魔術を行使していました。勿論、自意識でやったことではないでしょうけれど……」
何のことだ、と問おうとして己の身体から生えた刃を思い出す。
超常的な出来事の連続、その後倒れてしまったこと、目覚めてからの尋問……色んな事があり過ぎて気付かなかったけれど、あの『異端』だと恐れていた現象がもしかして俺の魔術なのだろうか。
「士郎が考えている通りですよ……アレが士郎の魔術の一部です」
ニッコリと笑ったギルの言葉が脳内に木霊する。
無数の刃が肉を貫く感触を己の肉体がそうしているかのように感じていた、それが俺の力だというならば、俺は……。

掌で口元を覆って黙り込んだ俺を見つめながらギルはまた笑う。
「そんな顔をしないで、士郎が悪いなんてことはないんですから」
「でも俺……」
あれほど望んでいた力、それが友人を傷つけたと言うのなら、俺はとてつもない罪人に違いない。
「士郎、お前には非はない。背信の徒から『神の声』を守ったのだからな。これは、教化監察官、ひいては聖堂教会の決定だ。これ以上の口答えは背信行為になる」
聖堂教会の決定、それは神の決定に等しい。
それが俺を無実というのなら、俺にはもう何も言うことができない。
「誇って良い。百年に一度という『神の声』をお前は守った、教会史上で称賛されるべき行為の一つだろう」
「でも……傷つけることでしか守れないなんて」
「ならば強くなれば良い」
目が覚める思いだった。
そうだ、俺は強くならなきゃいけない。
「俺、カミサマに恩返しするんだ……」
生き残ったことの意味を、カミサマのキセキが何故俺におとずれたのかを、求道したい。
その為に、俺はここにいるんだ。

「さあ、早く食べちゃいましょう。またミサに遅れますよ?」
ギルの言葉に頬が緩んだ。
「うん……イタダキマス」

もっと、もっと、強くなる。
力を手に入れる。
全てを、カミサマが慈しむ世のものを守れるように。
カミサマに背く悪者を倒せるように。