「間もなく到着いたします」
無言でいた二人の耳にスピーカー越しの声が聞こえた。
緩やかにスピードがおとされ、冬木ハイアットホテルのエントランスで静止した。
「お帰りなさいませ、ブルシュティン様」
二人を出迎えたドアマンは三十階の特別室を向こう数週間借りきっている上客をよく把握していた。
毎日違う組み合わせでも、不可解な時間にのみ滞在していても、無駄な詮索はしない。
「シルバークラウドVが来たらお通ししてくれ」
「かしこまりました」
取引先を車種で言うのは名前を言うべきでない相手だと知らせる為だ。
もっともドアマンも承知の上だろう。
間違いなく取引先を導くための保険のようなものだ。
エレベーターに乗り込むと、三十階のボタンを押す。
微かな浮遊感にシロウは視線を上げてセトの顔を見る。
「今日の客は少々手荒かもしれない、賢く対応しなさい」
「わかった。……どのくらい?」
何を、とは言わない。
この『仕事』本来の目的についてだ。
セトはやり手のビジネスマンに相応しい笑みを刻み、シロウの頭を撫でる。
「無論、限界まで───生きていれば良い」
「ヤな相手なの?」
「金払いが悪い」
「ふーん。じゃあ、お菓子は無し?」
「シロウがうまくできたら買ってあげるよ、いっぱいね。今日の客はともかく、コネクションは良い相手だから」
上客が釣れるように頑張れよ、と軽くウィンクをして開いたエレベーターを降りる。
それから三十分ほど経って客はやってきた、まだ三十台半ばといった風体の男だ。
イタリア製のスーツを身に纏った気障な仕草が軽薄な表情によく似合っている。
シロウは男が望むままに身体を開き、ゆだねる。
もう、幾度となく、数えきれない回数をこなしている。
少年といえど魔術師に必要なしたたかな一面を備えていた。
サディスティックな男の無謀な仕打ちに耐えながらも、被害が最小限になるよう賢くあしらう。
満足しつくして精根尽きたと本人に思わせる為に、ぎりぎりまで待ってから限界まで吸いつくす。
普通なら二、三時間で済む行為だったが、しつこい男のせいで倍以上の時間を要した。
男は少年性愛志向だったらしい。
それでもシロウほど幼い少年相手は初めてだったのか、やけにしつこく絡んできた。
どこかのんびりとして気の長いところのあるシロウですら苛立つ程に。

「長かったね」
スイートルームのエントランスソファでくつろいでいたセトは、仏頂面で出てきたシロウに苦笑を浮かべた。
お疲れ様とは言わない、必要なことだとお互いに理解しているからだ。
「あいつ、ヤダ」
「ま、僕も御免だね。でもコネだけは有り難く使わせてもらおう」
帰りにお菓子を買わなきゃいけないね、と笑って少年の身体に手をあてる。
セトの魔術は本人の意思で治癒に特化している。
商品といえど心ある子供たちの傷ついた身体を癒す為に自ら習得を願い出た。
「何が良い?」
「んー……沢山あるのがいい」
「いっぱい食べられるの?」
「うん、みんなで食べるから」
セトは呆れ笑いを浮かべて頷き、ホテルの支配人へ電話をかけた、
「子供が好む様なお菓子を適当に詰めてもらえませんか?……ええ、なるべく多く。今から降りますので……ありがとう」
「───大丈夫だったか?」
「ああ、勿論。……もっと食べなきゃ大きくなれないよ」
「お菓子食べても大きくなれない」
それもそうだ、と笑ってセトはシロウを抱き上げる。
フロア直通のエレベーターはすぐに二人を迎え入れ、するすると階下へ向かう。
まるで本当の親子のように笑いあいながらホテルを出る。
ロビーですれ違う人はその様子に微笑ましさを感じるばかりで、まさかつい先ほどまでその少年が見ず知らずの男の欲に支配されていたなどとは思うまい。
二人がエレベーターを降りた時点で優秀なドアマンは待機していたリムジンを呼んでいた。
一度も足を止めることなく来た時と同じそれに乗り込む。
後を追うように走り出てきた副支配人が大きな紙袋を窓越しに渡し、窓を閉めるとそのままホテルを後にした。
「美味しそう……しかもいっぱいだ」
「良かったね」
疲れた様子も見せずはしゃぐ少年にセトの頬もほころぶ。
帰ってもまだ休むことはできない。
少年に蓄積された魔力量を測定し、報告書をまとめて『家』へFAXしなければならない。
「シロウ、先に上に行ってるからね」
「わかった。ただいま、みんな」
「おかえりなさい、シロウ!」
「やけに遅かったな」
声をかけるとすぐにサヤとダイがエントランスへ走ってきた。
「おみやげ、あとで食べような」
紙袋をダイに渡すとセトの後を追って階段を駆け上っていく。
「今日の晩御飯はシロウの大好物だからねー!」
奥の方からミーナが叫んだ声に答えながら、一段抜かしで登りながら大声で返事をする。
その後ろ姿を見送りながらサヤとダイは顔を見合わせ、心配したほどではなかったことに安堵のため息をつく。

魔力量の測定自体は難しいものではない。
ただ、身体の機能を限りなく静止した状態で行う必要があり、落ち着きのない子供にとってそれは苦痛にも似た行為だった。
「うーん……」
かれこれ三十分近く測定を続けて、やっと結果が出たのだがセトの表情は厳しい。
それを覗き込みながらシロウも同じように厳しい表情になる。
「ダメだったか?もう一回?」
「いや、大丈夫。数値はとても良いんだ。どれくらい吸えたかわかるかい?」
「んー……この前の青い目の人よりちょっと少なかった」
「だとすると、やっぱり大源の吸収量が増えたのかな」
「それって良いこと?」
「悪くはないね、ただ良いかどうかは……。シロウの吸収量が増えたのか、この土地の大源と相性が良いからなのか……調べてみないことには」
セトの能力ではそういった鑑査はできない。
専門の人員を呼び寄せることはできるが、そこまでする価値がこの土地には見出せない。
所詮は極東の小さな島国で、数十年に一度の商機があるという程度の認識でいる。
「セトでもわからないことがある?」
「帰ったらアロン先生に聞いてみよう。簡単なデータ採取なら僕でもできるからね」
「そういうのダイが得意だよ」
「じゃあ、ダイにも手伝ってもらおうか」
話しながらシロウは身に着けていた服を脱ぎ始める。
『仕事』と測定の後はボディチェック、それが決まりだからだ。
「痕が酷いね。これはタバコ?」
「うん、ここと……こっち。ロープがイガイガしてて痛かった」
擦れた痕がある手首を見ながらシロウは不服そうに口をとがらせる。
痛みはセトの術で消えているが痕はしばらく残ってしまうだろう。
「次の仕事までには治るよ」
「……そう」
シロウは自分の役割を正しく認識している。
初めての『仕事』の時ですら泣き言の一つも洩らさなかったくらい。
「シャワーを使ったら着替えて食堂においで。ちょっと早いけど夕食にしよう」
「わかった」
二度頷いてシロウは着替えを選び廊下の向かいにあるバスルームへと小走りに駆けこんでいった。
昼食を食べる機を逸していたからよほど空腹なのだろう。
車の中でお菓子を食べるように幾度かすすめたものの、頑として受け入れない。
賢く素直ではあるが、反面でとてつもない頑固者でもある。
それが年相応であればいいのに、とセトは思う。

次の日も、また誰かが『仕事』へ向かう。
求められれば吸収ではなく供給を行うこともある。
シロウもそれから二度『仕事』をこなした。
最初が酷かったものの、後の二回はかなり楽なもので身体の負担はほとんどない。
ビジネスもシロウの魔力量も予想以上の成果をあげ、まずは一安心といったところだった。
今回の来日は半ばセトが押し切った形で実現している。
失敗すれば相応の対価を払わなければならない。
聖杯戦争のマスターとサーヴァントが揃ったという話も聞こえてきた。
争奪戦自体に介入する気は皆無であるから、セトとしては余計な火の粉がこちらにかからないよう祈るだけ。
不穏な気配があるのならさっさと逃げ出すつもりでいる。
後退は失態ではない。
ビジネスも争いごとも引き際が重要だ。
命が無ければ意味がない。
欲が過ぎて死んでしまってはすべてが無意味になる。
かつて実験の最中に命を落とした仲間たちを見てそう痛感している。
聖杯戦争が佳境に入れば冬木を離れることはあらかじめ決めていたことで、その状況になっても何も未練はないだろう。



その日の朝はやけに夢見が悪かった。
シロウは十二畳ほどの部屋のベッドで一人寝ていたが、耳の奥でリフレインする叫び声。
それは若い女の声で「私は死ぬの」と嘆く。
若い男の声で「忌み子」と叫ぶ。
誰かが「捨てろ」と怒鳴る。
幼児の聴覚は大人が思う以上に発達していて、意味をわからずとも音として記憶している場合がある。
彼らに名付けられたそれを呼ばれる機会は多かったように思う。
けれどそれより記憶に強く残っているのは思い出したくないものばかり。
その人たちの顔ももう朧ろに霞んでしまった。
見上げた朝焼けの空に、父であった筈の人の影。
何事か呟いて、立ち去るその姿。
きっとあと数年もすれば跡形もなく消えてしまうだろう、ヒト。
残像は消えても、声は聞こえる。
愛してくれる筈だった、誰かの声───。

その日は難しい客を相手にしなければならない、とセトは朝からため息をついてばかりだった。
国の要人と言って過言でない客だが、趣味の悪さが裏業界に知れ渡っていた。
無論ヘマをするセトではないが、子供たちは守らなければならない。
ロリータ嗜好のあるその客には本来ならユーリが最適だったが、いかんせん神経が細い彼女には不向きな相手だった。
サヤは痩せ気味で客の趣味からやや外れる。
結局、対象年齢はいくらか過ぎているが十分に幼い容姿のミーナを選んだ。
ミーナも難しい客相手とわかっていて、なおも余裕の表情で『仕事』を快諾した。
少々難しいが、それでもいつもと同じ。
客の望みを叶え、頂くものは頂いて……。
けれどその日、ミーナとセトが帰ってくることはなかった。