「Buon giorno! Come sta?」
「ボンジョルノ、ギル。ベーネ。コメヴァ?」
「……うーん、なんかぎこちないですねぇ」
せっかくの春の陽気の中。
教会の中庭の木の下で、ギルと二人でイタリア語の練習をしていた。
この夏から俺はイタリアの学校へ行くことになったからだ。
卒業するまで少なくとも数年はあちらで生活するのだから、イタリア語の勉強は当然必要なのだけど。
「わかんねー!なんでギルは喋れるんだよ」
「なんでと言われても……ボクがボクゆえとしか」
「もっとわかんねー!」
先週から綺礼が買ってきた子供用の学習教材を使って勉強しているものの、一向にわからない。
大体コレ、日本語で説明がないんだ。
わけのわからない文字がいっぱい書いてあって、絵もなんだか変だし。
「根気強くやればできるようになりますよ。さあ、始めからもう一度。今度は士郎から!」
「うー……ボンジョルノ。コメスタ?」
「Buon giorno, Scilo! Bene! Come va?」
「コジコジ……つーかさ、なんでギルはそんなに上手いんだ?」
「ふふ、それは士郎がもっと大きくなったらわかりますよ」
「なんだよ、それー」
だいいち、何で俺の名前が士郎じゃなくて「シーロ」になるんだ。
おかしいじゃないか。
「さあ、もう一度。Dai coraggio!がんばって
「ギル……おまえ、Non sei gentile!ぜんっぜんやさしくない
「うん、今のは良い発音でしたね。その調子でもう一度やりましょう」
「もうやだあ……」
「今日の課題が終わったら、外食しても良いそうですよ」
「……頑張る」
綺礼の作ったご飯を食べるくらいなら、泥団子を齧る方がまだマシだ。
だけどギルが連れて行ってくれるところはどこも美味しい、できれば付いて行きたい。





一旦は言峰教会付属の孤児院に引き取られたものの、誰からも里親の名乗りをあげて貰えなかった俺は、言峰綺礼という神父の養子となった。
二ヶ月前のあの大火災で生き残った『俺』は世間の人にとっては珍獣と同じようなものだそうだ。
俺にはそれがよくわからない。
時間が経った今でもテレビ局や雑誌、新聞の人が『俺』に興味をもっているから外に出てはダメだと言われている。
綺礼もギルも怒ると怖いから、ダメだと言われたことはしない。
特に綺礼にはカンシャしているから、怒られるようなことはしちゃだめなんだ。

あの時───大火災の時の記憶は殆どない。
警察のヒトにも、国のヒトにも、どこからかやってきたテレビのヒトにも聞かれたけれど、なんにもわからない。
いや……覚えていることならある。
真っ赤な空をさえぎる黒い影。
ちがう、影ではなくて黒い髪と黒い瞳の男の人が、俺を覗き込んでいた。
その人が俺を助けてくれたらしいけれど、誰が俺を救出したのかはあの混乱の中でわからず仕舞いだった。
印象深い、あの深い深い黒の眼は……綺礼に似ていると思う。
けれど、何度聞いてみても「それは私ではない」と言う。
でも本当によく似ていたんだ。
綺礼の眼はとても黒い。
夜の空よりも黒い。
その眼が何を見ているのかさっぱりわからないけれど、とても綺麗だと思った。
綺礼の眼だから綺麗、だなんて語呂あわせじゃないけれど。
カミサマに仕える神父だから、なのだろうか?
聞けば、綺礼は少し前までは悪者退治をしていたらしい。
それは『代行者』というもので、大変な修行を積んだ特別な人しかなれないものだという。
綺礼はそんなに凄い人なのになんで神父なんかやってるんだろう。
それを聞くと「お前と出会う為の導きだったのかも知れない」と笑うだけだ。
だとしたら、俺はカミサマに感謝する。
料理は下手だけど、強くて、格好良くて、優しい……こんな素敵な父親ができた。
ギルガメッシュという、ちょっとイヤミだけど頼りになる友達もできた。

そう、なんとなくだけど。
大火災以前の『俺』には父親がいなかったのだと思う、友達もいたとは思えない。
なぜ、とか、どうして、とか、そんなことはわからないけど、漠然とそう思う。
綺礼がはじめての家族、ギルがはじめての友達。
とてもとても大切な、俺の宝物。


「ふう、よくできました。予定の倍進みましたよ」
「本当か?」
ギルは笑って俺の頭をくしゃくしゃと撫で回す。
頑張るとギルは褒めてくれる。
こうやって頑張ればいつか綺礼も褒めてくれるのだろうか……。
ここに来た時、一度だけ頭を撫でてもらったことがある。
大きくて分厚い手、大人の手……頭のてっぺんをポンポンと二度撫でられただけだったけど嬉しかった。
「ねえ、士郎……今晩は何が食べたいですか?」
隣に座る俺の顔を覗き込むと、ニッコリと笑って訊ねてくる。
「そうだなあ、俺、魚が食べたい」
「早速手配しましょう。ひとまず着替えてから食堂で待ち合わせましょうか」
「わかった、すぐ着替えてくる!」
手を振って、暫しの別れ。

最初はギルも綺礼の子供かと思ったけど、綺礼とギルにそれを聞いたらとても嫌な顔をされた。
ギルは家の事情でこの教会に預けられているだけ。
お小遣いもいっぱいあって、ほとんど外でゴハンを食べている。
綺礼が良いと言う時は俺も一緒に連れて行ってくれる。
うん、ゴハンを作ってくれるのは嬉しいけど、火山の溶岩のような色をしたご飯は鼻が曲がるし、舌が痺れる。
油の代わりに洗剤入れたとかいう次元じゃないくらい、食べれないシロモノ。
だからギルがゴハンを食べに行こうと誘ってくれる時はできるだけ付いて行く。
お金を払ってもらうのは申し訳ないけど、綺礼のゴハンを食べると文字通り三日三晩寝込んでしまうのだ。
幸い、この教会はボランティアの人が毎朝恵まれない人の為に炊き出しをしている。
俺も手伝って朝ごはんはそれを食べる。
お昼ごはんは教会の婦人会がある時はおばさん達が持ち寄ってくるお弁当を食べるか、炊き出しの残りを食べる。
夜は残り物があればそれを、無ければギルと食べるか……綺礼が作るか、だ。
「綺礼には悪いけど、ギルが食べさせてくれる方が美味しいんだよな」
お腹痛くならないし、変な汗でないし、天使様が見えないし……。
「呼んだか、士郎」
「ぅわあ!び…びっくりした!」
「名前を呼ばれた気がしたのでな。どうした、ギルガメッシュと夕食に出かけるのではなかったか?」
「今着替えたところ。綺礼はまだ仕事?」
「いや、ただ今晩は聖書講読会がある。あまり遅くならないようにしなさい」
「わかった。いってきます」
綺礼は頷くと、聖堂の方へと歩いていった。

「お待たせ、ギル。どこに行くんだ?」
「湾岸線に新しくできたお寿司屋さんがあるんですよ」
「へえ、お寿司かー」
魚が泳いでるところだと良いなーと思いながら、黒い大きな車に乗った。
運転手の男の人は行き先を知っているのか、いつもどこへと言わなくても連れてってくれる。
ギルはきっとおぼっちゃまなんだろう。
「でなきゃ、ドアがたくさんある車に乗らないよな」
「どうかしましたか?」
「んー?なんでもない、こっちの話」
美味しいご飯を食べさせてくれるギルはキラキラして見える、余計な事は言わないのが吉だ。


ゴハンを食べて帰ると夜八時ちょっと前。
聖書講読会があることを知っていて間に合うように帰してくれたみたいだ。
「いつもありがとな」
「こちらこそありがとうございます、一人のゴハンは寂しいですから。また行きましょうね」
「うん」
一度部屋に戻って歯磨きをする。
そして聖書とノートと筆箱を持って、聖堂の横にある集会室へと向かう。
二十人ほどが入れるその部屋には、もう見慣れた顔ぶれが揃っていた。
「こんばんは、士郎ちゃん」
「中田のおばちゃん、こんばんは。風邪はもういいのか?」
「ええ、もう元気よ」
参加者のほとんどが中高年の男女で、俺にとっては親というより祖父母に近い年齢。
そのおかげかみんなに可愛がってもらっている。
「皆さん揃われたようですので始めましょう。今日は福音書の読み方についてです───」
決して大きな声ではないのによく通る。
ざわめいていた人々の声が一気に引けて、しぃんとした室内に綺礼の声と聖書をめくる音が広がった。

本当なら俺は小学校に行ってなきゃいけないトシだけど、学校の勉強はギルと一緒にドリルをやっているだけで通ってはいない。
今はちょうど春休みの時期だけど、四月になっても小学校へ通う予定が無いのだ。
俺を表に出すことを懸念する声と、どうせ一学期が終わればイタリアへ行くと言うこと。
その両方が俺をこの教会の中に留めている。
学校の勉強は自習だけどギルが物知りだから、スムーズに進んでいる。
これなら夏までに2年生の範囲が全部終わりそうだと言っていた。
だから最近は、教会で週に四回ある聖書講読会などの信徒講座と、日曜学校に参加している。
信徒講座は大人ばかりだけど日曜学校はほとんどが小学生で、ギル以外の友達はみんな日曜学校の中でできた。
友達の中にはあの大災害で親を亡くした子もいて、『俺』だけが特別視されることなく、普通に過ごしていられた。
ギルは日曜学校には参加していないけど、遊びにはよく参加している。
この間、四月になったら洗礼を受けることが決まった。
俺も綺礼のように働きたいと言ってみたものの当の綺礼が暫らく渋っていて、やっと色好い返事が貰えたからだ。
代行者になれるか、なんてわからない。
とても大変なことだという。
でも綺礼への憧れは止まらない。
俺が生き残ったのはキセキ───キセキはカミサマが起こすものだ。
だったらそれに報いなきゃならない。
俺が生き残った事には、必ず意味があるはずなのだから。

イタリアへ行くのは綺礼の『仕事』の関係もあるけれど、あっちには神父になる為の学校があるらしい。
そこは小学生くらいの子供から叩き上げで教育されて、聖堂教会の中でも特殊な専門を担うのだそうだ。
俺がそこに入って良いという許可状が先日出て、それからあわただしく事態が動き始めた。
聖書の勉強、洗礼のこと、そのほかいろいろなこと。
その学校を卒業するのは十三歳の夏。
それから先のことはわからない。
卒業してすぐ綺礼のように実戦に向かう者もあれば、さらに勉強する者もあるという。
時に落第したり、不適格とされることもあるとか。
それでも俺は絶対に卒業するんだ。
その為の努力なら惜しまない……ただ、理論を勉強する前にコトバを覚えなきゃならないのが難しい。
もどかしい。
日本にその学校があったら、と何度思ったことだろう。


聖書講読会はいつも通り夜九時に終わった。
それから少しお茶の時間があって雑談をして解散、というのがいつもの流れ。
少し眠くなった俺は、お茶を楽しんでいる人たちに声をかけて先に部屋へ戻った。
俺たちが住んでいるのは教会の裏にある司祭館だ。
聖堂裏の中庭を囲む回廊を抜けて、さらに奥へ入るとそこが司祭館へ繋がっている。
ふと、誰かに声をかけられた気がして足を止めた。
辺りにヒトの気配は無い。
まさかおばけじゃあるまいなと振り返ったところで、思わず心臓が止まるかというほどビックリした。
「もう終わったんですか、士郎?」
いつの間にか、俺の真後ろにギルが立っていた。
石造りの廊下はちょっとした靴音も響くのに、気配の一つもなかった。
「うわぁ、びっくりしただろ……ていうか、話しかけるならはっきりと言えよな。お化けかと思った」
「ボク、ちゃんと話しかけたじゃないですかー」
「うそだー、だって確かに……」
思い返すと聞き間違いだった気もしてきた。
それに何より───。
「そうだよなー。ギルが助けてなんて言うはずないもんな……やっぱり聞き間違いか」
「ふふ……真っ暗だから怖かったんでしょう?だからそんな、お化けと勘違いしたり、聞こえてない声を聞いた気になるんですよ」
「それじゃまるで、俺が怖がりみたいじゃないか」
「違うんですか?さっきボクを見た時の顔、写真に撮っておけば良かったなあ。ほんと、泣きそうな顔だったしー」
ギルは親切、だけど意地が悪い。
腹が立ってきて無視して歩き始めた。
「怒っちゃいましたか?」
「しらない!」
クスクス笑うギルはむかつく。
俺の部屋のドアの前まで来ると「そうですよねー」とギルがまた話し始めた。
「オバケなんかよりもっと怖いこと、この世の中にはいっぱいありますし……。士郎も気をつけてくださいね」
「そんなのだって怖くなくなるさ。修行積んで帰ってきたら、ギルだってギャフンと言わせるからな!」
「じゃあ、ボクも修行してようかなあ」
「えーッ、それはだめ!今でも強いだろ……反則じゃないか!」
ギルはニマニマと笑いながら、おやすみなさい、と言って自分の部屋に入っていった。
なんなんだあいつ。
というか、なんであんな所にいたんだろう。
あっちは教会関連の部屋ばかりで、聖堂と図書室以外は俺達が勝手に入っちゃいけない部屋ばかりなんだ。
図書室はもう鍵が閉めてあるし、聖堂にはそれこそ何もない
変な奴……いや、もしかしたら、一人で司祭館にいるのが怖くて集会室に行こうとしていたのかもしれない。
「なんだ、怖がりはギルの方じゃないか……」
なんだかギルに勝った気になって気分が良い。

自分の部屋に入ると風呂を済ませて、ベッドの上の壁にかけてある木製の十字架に手を合わせる。
今日も一日良い子でした。
明日も一日良い子にします。
ギルは怖がりです。
俺は怖がりじゃないです。
イタリア語は難しいです。
でもギルが教えてくれるから多分大丈夫です。
カミサマおやすみなさい。