ステンドグラスを通して差し込む陽が赤く染まり始めた。
ロッサ・アッセンブリという名の通り、夕刻には室内が真っ赤になるこの部屋は、つい先ほどまで十余名の少年達が無伴奏聖歌の授業を受けていた。
今はその片付けをしている生徒が三人いるだけ。
士郎はその三人のうちに含まれていた。
まだあどけないその額に深々と皺を刻み込み、ケタケタと笑いながら片付けている二人の話に混じらず、黙々と椅子を並べ替えている。

あの、冬木の悲劇からもう少しで一年───。
こちらに来て半年が過ぎていた。





ロッサ・アッセンブリの入り口は古びた木の扉だ。
重厚なそれはギイギイと酷い音を立てて押し開かれ、その隙間からそばかすの多い少年の顔が覗く。
『シーロ!』
『オット……どうした?』
乳歯が抜けたばかりの間の抜けた、けれど愛嬌のある笑顔でオットと呼ばれた少年は俺を手招いた。
『シーロ、学長先生が呼んでるよ。君のマストロが来てるんだって』
『マストロが?ん……わかった』
『片付けは僕が代わりにやってあげるよ。早く行った方がいい、ずいぶん前に呼び出しがあったってマエストロ・アウグストが騒いでるんだ』
『そうだったのか。じゃあ、後は頼んだ』
お土産あるといいね、とオットは笑いかけてきたが、曖昧に言葉を濁して赤色の部屋を飛び出した。

途中、廊下を走っていたことを上級生の聖歌隊長に見咎められて両手の甲を指揮棒で叩かれた。
ついてない……そう一人ごちて、走らず、けれど出来る限り急いで学長室へと向かう。
どこ、とは聞いていないけれど『あの人』が来るならきっと学長室の応接間に違いない。
無駄に広い石造りの建物がこんな時は疎ましい。

『失礼します、ドン・ピエトロ。ノヴィッツィオの士郎です』
ノックをするとすぐに入りたまえという声が聞こえて、オーク材の扉を開くとソファに腰掛ける学長のピエトロとマストロ……俺の師匠である言峰綺礼が視界に入った。
この半年の間一度も顔を見せなかったこの男は、以前と変わらずよくわからない笑みを浮かべている。
『緊張することはない、こちらへおいで。甘いチェドラータはどうかね、キノットもあるよ』
『キノットをお願いします』
『ニコーラ、シーロにキノットを!』
気の良い老人ではあるが、一癖も二癖もあるこの学長と話すのはとても疲れる。
チェドラータというジュースが嫌いらしく、チェドラータと別の飲み物を勧められたらチェドラータ以外を選べとはオットが言っていたこと。
好き嫌いはダメだと言われてきた俺にとって、この学長とはなんだか合わない気がしてならない。
暫らくして、助祭長のニコーラがキノットを持ってきた。ニコーラは日本人の俺に冷たいけれど、学長の言いつけとあってさすがに嫌がらせをするつもりは無いようだった。
隣でグラスを呷る綺礼を伺うが、相変わらず何を考えているのかわからない。
『飲みたいのか?』
『……いらない』
ワインの芳醇な香りが鼻を擽り、思わずくしゃみをしそうになった。
学長と綺礼は何か事件の話をしているようで、俺にはよくわからない。
イタリア語が不完全なのと、難しい話題だというのと、両方が原因だ。


西日はもうすっかり消えうせて、宵の明星が窓の外できらめいていた。
綺礼が船を漕ぎ始めた俺の腿を抓ったのは、たっぷりと小一時間話し込んだ頃。
目上の者を前にして居眠りをするとはけしからん、という口調で責められたが、学長がとりなしてくれてどうにかおさまった。
『シニョーレ、客間を用意させている。シーロと一晩共にするが良い。この半年彼はよく頑張った、マストロとして話を聞いてやるべきだろう』
『お心遣いに感謝します、ドン・ピエトロ』
『気にするでない。予備知識なく、言語体系の全く違うアジアより来た者は君が始めてだ。よくやっていると皆関心している』
そこには多分のアジア人差別が含まれていることなどとうに知っている。
『もったいないお言葉をいただき有難うございます』
『頭を上げなさい、シーロ。それではニコーラに案内させよう』
再び姿を現したニコーラは学長の指示を聞くなりあからさまに不満の表情になった。
『こちらです』
俺達を見ようともしない。
スプラウトのような青白で貧相な小男は、とかく年少組に威張り散らすが、俺のように人種の違う相手には嫌悪の眼差しを隠そうともしない。

『あなた方には勿体無い、部屋ですよ。ええ、勿体無いですとも。サルなぞ小屋で十分でしょうに』
ぶつぶつと呟く男はいっそ不気味だ。
けれど綺礼が傍にいるから、いつものような怖気はない。
『こちらです。くれぐれも備品を汚されませんようにお願いしますよ。ええ、これらの管理も私の役目ですからね。失せ物の一つでもあれば大変です、私の責任になりますからね』
古ぼけた鍵を差し出しながら、「それでは失礼」と修道士らしく礼をして後ずさる。
助祭長のニコーラより綺礼の方が立場が上だから、嫌でも形式に則ったのだろう。

"Buonanotte,おやすみなさい Signóre macellatore.シニョーレ・マチェッラトーレ"

最後に言い残されたその言葉に俺は目を剥いた。
『お前、なんてこと───!』
綺礼が止めていなければ、俺はアイツに食って掛かっていただろう。
アイツは綺礼のことを解体屋……否、屠殺屋だと言ったのだ。
代行者を蔑む宗教者は少なくない、ゆえにこういった蔑称が使われることがあるのは知っていた。
でも、アイツはあくまで助祭長格、司祭格の綺礼より格下の階級なのだ───それなのに。
「放っておけ」
日本語でそう言われて、あいつを掴もうとした手を下ろした。
ニコーラの後姿はもう見えない、逃げ足の速い奴だ。
「あいつ、許さねえ……」
「"Et qui te percutit in maxillam, praebe et alteram."学校でそう教わらなかったか?やられたらやり返せは主の意図するところではあるまい」
綺礼が言ったのは「右の頬を叩かれたら左の頬を差し出せ」という有名な一説だ。
それくらいはラテン語が苦手な俺だってわかる、喧嘩する度にくどくどと言われたのだから。
「そんなに口を尖らせるな、蛸になるぞ」
「ならないよ!」
小馬鹿にしたように口角を上げると綺礼はさっさと部屋に入ってしまった。


「さっきは学校がまだ終わっていなかったのだろう、悪かったな。予定より到着が早くなった」
さして悪いと思っていない風に言いながら、カソックの襟を緩めている。
次々とボタンがはずされ、ばさりと脱ぎ去ったそれを受け止める。
「大丈夫……アカペラのレッツィオーネが終わったところだったから、片付けをしてたんだ。でも友達がやってくれたと思う。それに今日はパラスコラスティコはないんだ」
カソックをハンガーに通しながら言葉を返すと、綺礼はふう、とため息のような声をもらした。
「パラスコラスティコ……ああ、課外授業か。呆れるほどに熱心なことで何よりだ。ところで、随分と日本語に疎くなっているようだが、学習はしているのか?」
「してるさ!でも……こっちにいると、日本語使わないからさ……」
「いずれはあちらへ戻るのだ、勉強しておいて損はあるまい」
「でも、大変なんだぞ!イタリアーノはわかるようになってきたけど、今だってラティーノやらなきゃならないんだ。スコラリッザッツィオーネのフランチェーゼもあるんだぞ?日本語もなんて、無理だよ」
「これは酷いな……」
シャツの襟元を開いて、綺礼は僅かに眉間に皺寄せた。
「イタリアーノではなく、イタリア語。ラティーノではなくラテン語。スコラリッザッツィオーネは……義務教育か。フランチェーゼはフランス語。日本語を正しく話す努力をしろ」
「簡単にできてたら……苦労、しねーよ。そういうの俺、苦手だもん。無理だって」
「無理ではない、私もかつてはそれらをこなしていた」
この男なら本当にできていそうだった。

返す言葉がなくなって、カバンの中身をチェックしている綺礼の行動を観察することにした。
相変わらずデカイ男だ。
開襟したシャツをそのままに、部屋の具合を確かめている。
ベッドは二つ、トイレとシャワーは一つ。
調度品の類もいくらかある、客室としては上等な部類だ。
修道院に併設されているこの学校は、いずれの部屋も質素にできていて、客室と言えどそれは同じだった。
おそらく元々は非聖職者向けに設えられた部屋、それを使わせてくれるのは二人部屋が他にないからだろう、もちろん学徒寮は別として。
「ベッドがやわらかい」
「寮のベッドは粗悪も良いところだからな」
「そうなんだよな。オットなんかぼろきれ集めてシーツの中に入れてる、ベッドが硬いとあいつ寝れないんだ」
「友達か?」
「うん。オットはここの……なんだっけ、あれ。赤ちゃんがいるところ」
綺礼が俺のことを聞いてくれるのがうれしくて話をしようと思うのに、日本語でどう言ったらいいのかわからなくて困ってしまう。
「乳児院か?」
「そうそう、それ。ニュージインの出身なんだ。でもすっごくいい奴。髪の毛が赤くてさ、俺より赤いの。寮では隣のベッドなんだ。歌が上手くて、いっつも教えてもらってる」
綺礼が止めないのを良いことに、この半年……綺礼と別れてこの学校に入ってからのことを話していった。
本当は全部話したい。
でも、いくつか話せないこともある。
言葉がわからないだけじゃなくて、綺礼には言い出せないいくつかの秘密。
「オット以外に友達はいないのか?」
「いるよ。でもオットが一番仲良しなんだ……俺、イタリアー……語でしゃべるの、早くないから。オットはちゃんと最後まで話を聞いてくれるんだ」
不自然に止まった言葉には何も言わず、綺礼はただ「そうか」と言って俺を風呂へと追いやった。
「夕食はここでとる、先に風呂に入っておけ」


「そう言えば、ギルは?」
風呂上り、頭を乾かしてもらいながら訊ねると綺礼は右の眉をピクと動かした。
「アレは日本にいる……どうした、気になるのか?」
「んー、ギルだってコドモだろ、学校とか行ってんのかな。綺礼はギルに会ってる?」
「先月の初めだな……相変わらずだったが。どうした、会いたくなったのか」
「そりゃあ、会いたいさ!ギルは俺の最初の友達だもん」
わさわさとタオルで髪の毛をこすられるのが気持ち良い。
気持ちよさにだんだんとお眠くなってくるけれど、せっかく綺礼が来てくれたのだから起きてなきゃいけない。
「こっちに来たのは、仕事?」
「まあな。それとお前の様子をたまには見て来いとギルガメッシュが言っていた」
「なあんだ、ギルが言ったから来たのかよ」
「不満か?」
「べっつにー」
髪が乾いて部屋に戻ると、丸テーブルの上にいつのまにか夕食の支度ができていた。
いつも食べてるかたいパンじゃない、やわらかいパン。
「先生用のやつだ……」
「どうした、食べるぞ」
「あ、うん!」
食前の祈りを捧げて、半年振りの綺礼との食事。
仕事のことを聞くとかいつまんでこの半年のことを教えてくれた。
一体を逃した、と言っていたけれど、それ以外は殲滅したというのだから凄い。
「やっぱり綺礼は凄いな」
そう言うと綺礼は凄く変な顔をした───嫌そうというか、なんと言うか、ゴキブリを見るような眼差し。
すぐにいつものドンヨリとした目になったけれど、一体何が気に入らなかったのだろう。
「俺も代行者になりたい……なれるかな」
「努力次第だ……アレコレと愚痴っているうちは、精進は望めまい」
「がんばる」

全部食べて食器を片付けていると「ワゴンに乗せて廊下に出しておけば良いそうだ」と言われた。
いつもはノヴィッツィオの中でも下学年にあたる俺たちの仕事だ。
「なあ、綺礼。ノヴィッツィオって日本語でなんていうの?」
「ノヴィッツィオは見習い修道士、といった所か。ただ、この学校では初等部のことを言う」
綺礼は子供の頃にやっぱりこの学校に通っていたらしい、俺より発音が良い。
こういうのを打てば響くというのだろう、本当に物知りだ。
「じゃあ、アッコーリトは?」
「侍者」
「へえ。今度の日曜、俺さ……メッサで侍者やるんだ」
「日本語ではメッサではなくミサだ」
「似たようなものだろ」
「日本人には通じないぞ」
凄い、と誉めてもらうことを期待したわけじゃないけれどガッカリした。
オットやカミッロなんかまだ侍者をさせて貰えないんだ、でも俺は先生に指名された。
凄く誇らしいことのように思っていたのに、綺礼の反応はない。
「そういえば、剣術を習っているそうだな」
「なんで知ってるんだ?」
「学長から聞いた。随分熱心に取り組んでいるそうだな」
「たまたま、守衛のバルテルがさ……時間がある時にだけど」
本当は違う。
黄色いサルだと上級生に言われて取っ組み合いの喧嘩になってボロボロに負けたんだ、あちこち怪我をして倒れてた俺を助けてくれたのがバルテル。
当時、今より下手くそだったイタリア語で必死に話して、だったら苛められないくらいに強くなれといわれた。
それから、負けないだけの体と反射神経を養うために、顔を合わせる度に練習している。
バルテルがいない時は一人でもやっている。
俺だって、将来は代行者になりたいから必死に練習しているけれど、バルテルのスパルタぶりはとんでもない。
「バルテルがプリヴァートで教えてくれてるんだ」
「プリヴァートではなく、個人レッスン。……まあ、悪くはないことだ。体を作ることは己の精神とも結びつくからな」
「俺、早く綺礼の役に立ちたい」
「急いては事を仕損じる、ということわざがある。焦って急ぐと失敗する、というものだ。今のお前に必要なものだろう」
「えー……」

それからはくだらない話ばかりだ。
相変わらず辛いものばかり食べてるとか、ギルは外食ばかりだとか。
ここでは食事を作ったり片付けをするのは全部当番制だ、だから少しは料理ができるようになった。
いつか日本に帰ったら、ギルにゴハンを作ってあげよう。
綺礼に料理させると酷いことになるのは、もう十分身に染みてるから。

「もう消灯時間だ、寝ておけ。明日も早い」
「うん、おやすみなさい」
「おやすみ」

とろとろと目蓋が落ちてくる。
意識が途切れる寸前、綺礼が俺の頭を撫でてくれるのがわかった。
いつぶりだろう。
考えることもできないまま、俺は眠りに落ちていった。