「久しぶりだなあ、士郎と会うのは。もう一年なんですねえ……ふふ」
「どうした、アーチャー」
窓の外を見ながら何事か思い出したように笑う少年に男が尋ねる。
「いいえ、何でも。ただ……随分と『彼』に執着するんですね」
珍しい、と言外に含む少年に珍しくスーツを着た男は口端を上げる。
「半年前にも会ったんでしょう?別に近い所へ行ったわけでもないのに」
「アレは私の飢えていたものを満たす、希望……否、絶望か。手塩にかけた分だけ、見返りは大きかろう?」
成田空港第一ターミナル五階のラウンジで寛ぐのは、金髪の少年と黒髪の男だった。
時間は正午前、言うまでも無く搭乗待ちのひと時をここで過ごしている。
身なりの良いビジネスマンの姿が見えるものの、VIP向けの有料ラウンジに子供の姿があるのは珍しい。
しかし少年はその空間に違和感無く溶け込んでいる。
それは身に纏う服が上等のものであるとか、滅多に見られないクラスのカードを保持しているといった外因ではなく、少年自身に上流階級然としたものが感じられるからだ。
親しげに少年と言葉を交わす男も、タイを締めない漆黒のスーツ姿がまるでいずこかのマフィアのようでもある。
否、事実そうであるのかもしれない……そう思わせる気配が男にはあった。
服の上からでもわかる鍛えられた体躯は、少年の雰囲気とあいまってボディガードのようでもある。
しかし実際には彼らの態度は主従のそれとも違っていた。
「あなたのゲテモノ食いには、ボクでも呆れますよ」
けれどそれも一興、そう呟いて穏やかな目でガラスの向こうを飛び立つ飛行機を眺める。
『お知らせいたします、イタリア航空ローマ行き85便はまもなく搭乗を開始いたします───』
女性のアナウンスに男が立ち上がる。
「行くぞ、アーチャー。時間だ」
「言われなくてもわかってますよ、マスター」
小さな手荷物一つを持って、少年はゆったりとした足取りで窓を離れる。
ラウンジの出口ではチーフマネージャーとスタッフが二人を見送るために並んでいた。
「行ってらっしゃいませ、言峰様、ギルガメッシュ様。またのご利用をお待ちしております」
無表情のままドアを潜る言峰綺礼とニッコリと笑って手を振った少年……ギルガメッシュは、ラウンジの外で待っていたイタリア航空のチーフパーサーに誘われて優先搭乗口へと向かった。
「まだ笑っているのか」
「だって……ねえ、マスターは何も感じないんですか?」
何かが起こる予感がする、そう言って少年はなおも笑う。





『シーロ、まだ勉強してるのか?』
そばかす顔の赤毛がひょっこりと横に覗く。
振り向くまでもなくそれは、清掃当番で暫らく姿を見なかったオットだった。
『うん……ヘブライ語の課題が終わってなくて……』
聖堂教会の神父養成学校は、イタリアの教育制度と神父養成課程の両方を兼ねている為に語学教育だけでもかなりの負担になる。
多くの落第生はこの語学教育についていけないが故のもの。
国語としてのイタリア語、第一外国語のフランス語、教養科目としての古典ギリシア語、聖書読解に必要なラテン語と古典ヘブライ語、十一歳からの上級課程になると更に第二外国語として英語・ドイツ語・ロシア語などから一科目を選択する必要があるらしい。
俺の場合は綺礼に課された日本語の学習もある。
時間がどれだけあっても足りないほどだというのに、聖歌隊や武術訓練などの課外授業もこなさなければならない。
おかげで毎日身体を酷使して寝つきは良いのだけれど。
『うわぁ……そんなところまで進んでるんだ。凄いね……僕なんかまだここまでだよ』
数ページ前にさかのぼってここ、とオットが指差したのは俺が先週終わらせたところだった。
語学の授業は大体が文法や基礎構文の授業を数ヶ月した後は、読解とその言語でのレポート提出がメインとなる。
だから進行度に差が出てしまうのが普通で、俺の場合は語学の筆記の進みは速い方だった。
言語体系が同じだということに気づけばそこからは早い。
逆にイタリア語が母語のオットは、国語の授業はともかく、母国語の観念に囚われて他言語はなかなか進んでいないらしい。
『……この後、また訓練なんだっけ?』
『今晩はレオナルド……初歩魔術の訓練』
『よく学長先生が許可したな……ドン・ピエトロとマエストロ・アウグストって言えば、魔術師の異端審問に積極的な派閥だろ?』
『別に魔術師になるわけじゃないから。敵を知れ、とマストロに言われてるんだ。代行者となれば魔術師と対峙することもあるし、無駄はないからって』
『へえ、随分とリベラルなんだね、シーロのマストロは』
マストロはいわば神父としての師匠みたいなもの。
この学校に入るためにはマストロについてその推薦を受けなければならない……とは入学後に知ったことだけれど。
マエストロ・アウグストは聖歌隊を率いる教授で、かつては聖歌大隊と呼ばれる後方支援組織の重鎮であったという。
今は第一の弟子にその地位を譲り後継者育成に余念がないというけれど……なるほど、俺がマエストロ・アウグストに眼の敵にされていた理由がわかった。
『マストロも魔術が使えるんだ。ドン・ピエトロは俺のマストロの先生だったから、目的あっての魔術修習には怒らないんじゃないかな』
『そうなのかなあ……僕にはわかんないや』
マエストロは将来、オットを聖歌大隊に入れたいと思っているらしい。
オットの歌が凄いのはこの学校にいれば誰でも知っている。
癒しの歌は傷を癒し、怒りの歌は罪人を悔い改めさせる、歌に特別な力がある能力者であることは明らかだった。
当の本人にはその気は全くないようだけど。
『終わるの?』
片付け始めた俺を見てオットが訊ねる。
『レオナルドの所へ行かなきゃ……オットもアカペラの個人レッスンがあるんだろ?』
渋る様子のオットの背を叩いて立ち上がる。
『遅れるなよ。怒ったら怖いんだろ、マエストロ』
これ以上ここにいると約束の時間に遅れてしまう。
いつもと様子の違うオットが気になりながらも、俺は手を振って自習室を出た。


レオナルドは聖堂教会の聖職者であると同時に、各地の魔術教会とのツナギを担う魔術師でもあった。
異端ではあるけれど、上層部の特例認定を受けて何の咎めもないという。
敵を知れ、と言った綺礼も同じであるらしいとはレオナルドとの話から知った。
綺礼が得意とする治癒は魔術的理論に基づいているが、教会的神秘の一つと酷似しているために不問どころか重宝されているとか。
魔術師が求めるという真理と、教会が求める神秘は意外と近いところにあるのかもしれない。

レオナルドは俺がここに馴染んだ頃、客員講師として敷地の一番端にある塔に住み込むようになった。
客員講師と言っても授業を受け持つわけでも、講義を開くわけでもない。
俺以外にごく数名、魔術を学ぶ生徒がいるくらいでいつもひっそりとしている。
他の生徒と顔を合わせたことはない。
俺が一番年下だということがレオナルドの話でわかったくらいで、故意に時間が合わないようにされているようだった。
『失礼します、シーロです』
『お入り……』
コポコポとビーカーの中で煮えたぎる形容し難い色の液体。
血に似た臭いが充満している。
いつも通りの講義、あらゆる魔術の体系そして各々への対応。
属性の見極め方から、魔術と教会的神秘の融合まで、このレオナルドという男に語らせると理論上は魔術を打破することは容易い。
こうして魔術の理論については随分と学んできたものの、実践となるとどうも上手くいかない。
二十七あるという魔術回路は魔術師の家系の外に生まれた者としては非常に優秀である、らしい。
魔術師として大成を目指すわけではないから二十七あれば十分といつも言われている。
魔術を相殺するだけの能力があれば十分なのだと。
───けれど、だ。
二十七ある魔術回路を全て正常に機能させても、どういうわけか魔力の生成がうまくいかない。
まるで穴の開いた器に注ぎ込むように、生成した端からいずこかへ消えてしまうのだ。
己の属性を知る為の検査すらできないのであれば、果たして俺が魔術を学ぶのは意味あることなのかとも思い始めたこの頃。
唯一の得手といえば鑑査能力くらいだ。
根拠を説明しろといわれれば困る第六感的なものだが、レオナルドは酷くこの能力を有り難がっている。
『シーロ……たとえば魔術的に張り巡らされた罠があったとしよう、魔力の微動すら察知できる罠さ。敵は安全だと思うだろう。しかしそれを鑑査できるということは、敵に悟られず裏を掻く事が出来るということさね』
外縛の呪印が刻まれた入ってすぐの床石を避けて、いつものソファに腰を下ろすとレオナルドは囁くような声でそう言った。
『お前より魔術の行使に秀でた者はおるが、ソレに気づいたのはお前だけさね』
『でも、使えなきゃ意味がない』
『馬鹿を言うでない。何もお前に魔術師になれと言うわけではないさ、敵の手の内を知れと言っておるのよ……』
さて、と言葉を切ったレオナルドが出したのは、契約の書と呼ばれる召喚の為の魔方陣についての解説書の写本だ。
遥か昔に確立した召喚、それが集約された本は古代言語から各言語に訳され、今では中級魔術の本として一般になっている。
しかしこのレオナルドが所有しているのは写本のの中でもかなり古い部類──ラテン語で書かれたそれを今では難なく読めるものの、初めのころは語彙の難解さに、ただ描かれている魔法陣を写し取るだけの作業だった。
生憎、魔力の生成がうまくできない身では自力で召喚することはできなかった。
けれどレオナルドの魔力による代理召喚で成功はしているから、理論構築に間違いはないらしい。
ただし、この学校の協定によって呼び出した下級の使い魔は即時に滅することが義務づけられている。
学校といえど、修道院など聖域とされる施設が併設されているが故の措置だ。
使い魔を使役する、ということは理論としてはわかるものの、その経験がない俺には実感がない。
召喚された瞬間に断末魔の叫びを上げなければならない彼らに、しかし俺は何の罪悪感もない。
ここに呼び出されるのは悪なる者のみ。
ならば、それを滅することに何の躊躇いがあろうか。

『よろしい……美しく仕上がっている』
『ありがとうございます』
『水属性の下級精霊を呼び出すにはこれが最適さ、有効な水脈があればなお良い。お前さんならそれすらも感じ取れるだろうよ』
正直なところ、買いかぶりだと思う。
自分ひとりでそれを扱えるわけではないのだから。
『これらの精霊は魔術的利用だけでなく、聖堂教会も神秘の一端として扱う。もちろん、呼び出し方は違うさね……しかしどちらも理論は一緒さ』
レオナルドはいつも何でもないことのようにぶつぶつと呟くばかりだが、その内容はとても深い意味を秘めている。
忘れないように書き留めながら、いくつかの質問をしてこの時間が終わる。
『ありがとうございました、マエストロ・レオナルド』
『急げ、急げ……夜のメッサがすぐにも始まるぞ』
背の曲がった痩躯の男は髪だか髭だか区別のつかない白い毛を揺らしながら階段を上っていった。
こちらをちらりとも見ないのはいつものことなので、そのまま頭を下げて塔を出た。
もうすぐ夏至の頃、まだ太陽は赤い空に浮かんでいる。
生ぬるい空気を縫う様に、すその長い服を蹴って走っていく。
西玄関から入ると、ちょうどクラスメイトが並んで聖堂へ向かっているところだった。
自分の場所に飛び込み、何事もなかったかのように進む。
たとえ課外や個人レッスンがあったからと言って、一日五回あるメッサに遅れることは許されない。
もしも遅れたりサボったりしたら、懲罰を受けなければならない。
軽微なものであれば告解と説教だが、重くなれば食事抜きや懲罰房入りなど容赦ない。
『あれ……オットは?』
『しらない』
いつも隣にいる筈のオットの姿が見えず、バレないように前にいたカミッロに聞いたけど首を横に振る。
愚痴っぽいオットだったが、今までサボったり遅れたりしたことはないのに。
珍しいこともあるものだと思っても、誰に聞くこともできない。
聖堂に入ると一切の私語は禁止となるためだ。
パイプオルガンの高らかな入堂曲に背押されるように整然と進む黒衣の行進。
やがて大聖堂の扉が閉められ、夕刻のメッサが始まる。


ステンドグラスから射し込む陽はやがて薄らぎ、メッサが終わる頃には壁の蜀台の蝋燭がほのかな明かりを灯すのみとなる。
『オット、来なかったね……もしかして何かやらかしたのかな』
『まっさかー。あのオットだぜ……今まで懲罰ゼロの優等生クンが、今更何かやらかすかよー』
聖堂からの戻り道、カミッロとステファノが聞いてきたけど俺が知るはずもない。
『別の用事があったとか、じゃないか?』
『用事ねえ……ま、アイツ、マエストロ・アウグストのお気に入りだからな。免除してもらってんのかも』
『でもマエストロはいらっしゃってたじゃないか。オットだけ別ってことは無いんじゃない?』
夕刻のメッサが終わると夕食の時間なのに、食堂にも姿が無かった。
皆が食べ終わっても、来ない。
夜のメッサが終わって、入浴を終え、鐘楼塔から就寝の合図の音色が聞こえてきた頃、寮の部屋ではオットは初めての懲罰房入りだろう、という結論に達していた。
点呼に現れた寮長がオットの不在について何も言わなかったからだ。
一人でもいなければ、その部屋の全員で探さなければならない規則。
それが無いのだから寮長はオットの不在をあらかじめ知っていたに違いない。
『明日には帰ってくるかな?』
『用意しなくちゃな……』
『何のさ』
『祝初懲罰、初懲罰房入り!』
馬鹿いってないで寝ろよ、と部屋のボス格であるダリオが文句を言ってきて皆黙ってしまった。
ダリオを怒らせると碌な事にならないからだ。

───カミサマ、オットが早く帰ってきますように。
そっと祈って眼を閉じた。
眼を閉じるとすぐに睡魔が襲ってくる。
勉強と鍛錬の連続は、眼を閉ざすだけで寝付ける身体にしてくれた。



やがて、時計の短針が真上を向く頃、一つの小さな影が部屋に入ってきた。
緩慢なその動きはやがて俺の隣のベッドに潜ったのだけど、既に寝入っていた俺は気づくことがなかった。
それが、何かが起こる前触れだったと気づくのは後のこと。
すすり泣くような声は誰の耳に届くことも無く、やがて途切れがちに消えていった。