夏の暑い盛りだった───。
少年が通う学校を含む修道院群は山の手にあったが、それでも暑気を払うには至らない。
湿度が低いため日陰や石造りの構内はひやりとしていたが、この時期の日差しはとにかく強い。
自給自足が原則のこの学校では家畜は教会に仕える家畜番が面倒を見ているが、畑仕事は当番制で担っている。
士郎はその暑い盛りの土曜日に、当番の為に畑へとやってきていた。
今日の仕事はオリーブの収穫だったが、ずっと見上げての作業なので木漏れ日が目を射して痛い。
それでもまったく日陰のないトマトやキュウリなどの露地物の収穫よりはマシ、そう思ってかれこれ一時間あまり収穫に没頭していた。
悲鳴とざわめきが聞こえたのは、ようやく熟した実が残り半分となった頃。
はじめは無駄話をしていた誰かが上級生に怒られでもしたのかと気にもとめていなかったが、見知った顔が自分を呼びに来たことでどうやら尋常でない事態だと気がついた。
『シーロ!オットが倒れた……君、同室だろう?収穫はいいから付き添いしてきてくれないか』
『オットが……?』
声をかけたのは学校の聖歌隊でソロを任されている最上級生のボニファチオ、自他共に認めるマエストロ・アウグストの愛弟子で卒業と同時に聖歌大隊へ入ることが決まっているという。
枝にかけていた手を下し士郎が肩にかけていた収穫籠をおろすと、それをボニファチオが受け取る。
『ひどい熱で、何も言わずにバタンと倒れた。暑さにやられたわけじゃなさそうだが、顔色がひどく悪い。僕は先生を呼んでくるから先に医務室へ行ってて』
『わかりました』
士郎は素直にうなずいて、まだざわめいている方へ駆けだした。




俺が果樹園から畑の方へ出ると、体の大きなステファノがオットを背負い、今まさにここを離れようとしているところだ。
『ステファノ……オットは?』
『ひどい熱さ、よくこんなので畑仕事に出てきたもんだよ』
俺だったら医務室に駆けこんで寝てるぞ、などと言いながらオットの体を背負い直している。
一番近い建物は学校の寮棟、構内は案の定ひんやりとした空気に満ちていて医務室を目指す足も自然と早くなる。
『さすが優等生だなー』
『お前も十分優等生だろ、シーロ。一年前は学年の中で一番のドベだったのに』
『言葉に慣れてなかったからな』
今では会話なら日本語よりもイタリア語の方が得意だ。
読み書きは日本語の学習でどうにでもなるが、細かなイントネーションは日本語を聞く機会が少なすぎてよくわからない。
『それでもだよ、たった一年で学年トップ3だろ?俺なんかよくて平均点なのにさ……』
『平均で十分だろ。それに、それだけ体がデカくて何が不満なんだよ』
『シーロは小さいよなあ』
まだ何か言おうとしていたようだったが、医務室が見えてきて口を閉ざす。
『失礼します、急患をお願いします』
無愛想な老翁が振り向く、少なくないここの人数にも関わらず医務室はこのヤコポ老人ただ一人に任されている。
医師としても神父としても優秀なのは確かだが、厳めしい顔つきと無愛想さとで修道士たちはともかく、見習い修道士の子供たちにはすこぶる恐れられている。
何も言わないままベッドを指さされてステファノはそっとオットを横たえる。
改めて見たオットの顔色は真っ青で、

『名前は?』
『ノヴィッツィオのオット・ダ・ローマです』
師匠マストロはここのに?』
『はい、マエストロ・アウグストが』
『またアレか……よい、お前たちは帰れ』
『え……でも』
帰れと言われても付き添いを命じられている、ヒエラルキー社会では上級生の命令は絶対だ。
『私が帰れと言っている、出て行け』
『でも俺たち、ボニファチオに付き添いを命じられています』
『なに、ボニファチオとな?ふむ……』
卒業年次生の中でも断トツの主席とは名高い男の名前に何か思うところがあるのか、しわくちゃの顔をさらにくしゃくしゃにして考えているようだ。
俺とステファノは顔を見合わせて、それでも身じろぎせず言葉を待つ。
『ボニファチオは何と言っていた』
『先生を呼びに行くから、オレとシーロに付き添いをしろと……オレたちオットと同室だから』
なあ、と言われて頷く。
『ボニファチオがそう言うのであれば仕方あるまい』
それきりぶつぶつと何かを呟きながらヤコポは椅子に腰かけ、何事か書き物を始めた。
このわけのわからなさは今更なので深く考えてはいけない。

しばらくして、軽いノックとともに医務室の扉が重々しい音を立てて開かれた。
『失礼します。ヤコポ主席医師アルキアトラ・ヤコポ見習い修道士長アルチノヴィッツィオのボニファチオです。先ほど少年が運び込まれた筈ですが……ああすまない、待たせたな』
どうせ返事がないとわかっていたのだろう、ヤコポの返事を期待していないのがありありとわかるそぶりでこちらに直行してきた。
ヤコポ老人は案の定微動もしなかった。
『様子は……やっぱり変わりないか。マエストロ・ジャコモがすぐに来るから戻っていいぞ───悪かったな、付き添いさせて』
『構わないですよ、畑仕事サボるいい理由になったし。なあ?』
同意を求められても困る、返事をする代わりに肩をすくめてみせた。
面倒見の良いボニファチオは同じアウグスト門下の末弟子であるオットがよほど心配なのか、額を触ったり袖を捲って脈をとったりと忙しい。
こういうことは本来ヤコポがやることでは、と思っても声には出さない。
たとえ言ったところで、あの老人は我関せずで怒りもしないだろうが。
『最近、オットの様子はどうだった?何か変な様子だったりとか……』
『んー、別に。ただ、こないだ懲罰房に入ってたから』
『懲罰房?オットが……まさか!最近は懲罰房に入った生徒はいなかった筈だ、生徒が入れられたら僕のところへ報告がくるし……ましてオットが懲罰房入りするようなこと、するわけないだろう』
『でも、点呼の時いないことが何回かあったけど先生は何も言わなくて、だから懲罰房だったんだろうってみんなで言ってたんだけど……いつだっったっけ、シーロ?』
『先週の金曜日と今週の水曜日……昨日も遅かったけど、朝見たら戻ってたし』
懲罰房入りなら夕食時から朝食の頃までいないのが普通で、それを考えるとオットは戻ってくるのは起床時間の頃だった。
『あの……マエストロ・アウグストには言わなくていいんですか?』
ふと漏らしたステファノの言葉に、そうだ、と思う。

マエストロ・ジャコモは確かに面倒見が良い、三十歳という若さもあってノヴィッツィオの兄貴分でもある。
聖歌隊のここに在学していたころは聖歌隊のソロだったというし、昨年までは聖歌大隊で史上最年少で歌唱指揮もとっていたというから相当な能力者だ。
先年亡くなったという、マエストロ・アウグストの盟友ドン・ジュゼッペの門下だ。
師匠同士が盟友といっても聖歌大隊を大きく二分する大門下間の関係は良くはなく、アウグスト門下のオットの面倒をジュゼッペ門下のジャコモに頼むのはいらぬ猜疑を生みかねない。
その派閥闘争はここに一年もいれば、十歳にも満たない俺たちにだってわかる。
なのに何故、と思うのはとても自然なことだった。

『僕たちのマエストロは既に承知してらっしゃるだろう……マエストロ・ジャコモにお願いしたのはちゃんとした理由があるんだ、心配しなくていい』
先刻お見通しと言ったようにボニファチオが言うが、それでも心配になるのは俺だけじゃないみたいだった。
『だったら……いいんですけど』
納得しきれない様子でステファノがそう言う。
『おそらく、暫くの間オットはここで静養しなきゃいけない。その間、君たち二人がオットの世話をすること……その間の清掃と畑の当番は免除する』
『ホントですか?やりぃ!』
『喜ぶなよ、ステファノ。あの、具体的に何をするんですか』
『着替えの準備と洗濯……それから食堂から食事を運んだりね。授業のノートをとってあげたり、話し相手も』
『そんなんで良いんだ……』
ステファノは、なーんだ、と朗らかに言って笑う。
『遊びじゃないんだぞ』
『ハハハ、かたいことは言うなよ、シーロ。オットのおかげで堂々とサボれるじゃん』
ボニファチオも困ったように笑っていた。
『休み時間もできればここにいてあげて欲しい、ココだと一人でさびしいだろうからね』
……と、ボニファチオは相変わらずこちらに気を向けないヤコポを視線で指した。
確かに用が無いと、否、用があっても必要最小限未満のことしか言わないヤコポと二人きりでは気が滅入ってしまいそうだ。
『わかりました、任せてください』
『頼んだよ。じゃあ、今日は僕がついてるから、明日から頼むね。先生たちには僕から言っておくよ。同室の子たちには君から伝えてもらえる、シーロ?』
『構いませんけど、何て?』
『……ただの過労だよ、頑張りすぎて疲れちゃったんだろうね』
『わかりました、それじゃあ……』
午後のメッサを知らせる鐘が聞こえてきて、あわてて頭を下げた。
『廊下は走ったらだめだよ、遅れたら僕の名前を出していいからね。それじゃあ、ありがとう』

ボニファチオに見送られて医務室を出た。
ここからメッサのある聖堂までは少し距離がある。
走らない程度に急ぎ足で向かいながら、ステファノは納得いかない顔でいた。
『なあ、過労ってのはなんとなくわかるけど……結局、あいつが夜いなかったのは何で?』
『先生が何も言わないんだから、秘密の特訓とか?』
マエストロ・アウグストがオットを今までの弟子の中で一番の逸材だと言っているのは有名なこと、マエストロの特別許可があれば時間外の特訓を許されることもあるらしい。
『それでも、腑に落ちない』
いつも物事を深く考えようとしないステファノにしては珍しく食い下がる。
『ほら、急げ……もうメッサが始まってる』
歩みを止めようとするステファノの腕を引きながら、けれど俺も同じ疑問を抱いていた。
いやな胸騒ぎ───こういう時の俺の勘は当たる。
良くないもの……悪しきもの……、そういうものに酷く敏感だった。
近い将来とんでもないことが起こるのではないか、そんなことを考えながら聖堂の入り口の扉を押し開けた。