ギリ……と左腕に鎖が食い込む。
 不気味な孔から這い出そうとする金髪の男が、黒いそれを糸引きながらにじり出てくる。ズタボロになった身体に力を込めようとしても、無理だ。

 腕を引きちぎってしまえ!

 でなければ孔に飛び込んでしまえ!

 この男が出てきてしまえば、この世界がどうなるかわかったもんじゃない!

「………ッ」
「今さら、我が何故……死なねばならぬ!」
 埋もれていたギルガメッシュの左腕が黒いものを引きずりながら鎖をその腕に捲きつけながら現れる。
 服は焼け爛れたようにぼろぼろで見る形もない。もう胸まで現れてきている。弾けた右肩はぞっとするほどどす黒い色で爛れている。
「…くしょ……」
 コイツはあの悪夢の原因だ。
 あの赤い世界を生み出す原因だった。
 助けることなんかない。
 助けることに……意味なんかないじゃないか。
「ち…くしょ……ぉ」
 己の左腕に捲きついた鎖を引っ掴む。腕に爪を立てるようにしてギリと引き締め、僅かな窪みに両足をかけ身体を固定した。何かが割れる音がする。体がバリバリと引き裂けて粉々になっていく――。真っ青に鬱血した左手で振り切るように鎖を握った。

「ちく……しょ、舐めるな―――ッ!」

 反動で背中から地に落ちる。
 まるで、ドロリとした蜜から引き抜くように、そのサーヴァントは転がるように境内に抜け落ちてきた。そして鎖を放した左手に再びあの剣をかまえ、孔を両断した。
 恐ろしいほどの静寂だった。もう自分はぴくりとも動けない。
 ギッと赤い双眸が俺を映す。その赤さにあの少女を思い出す。

 躊躇いもなくイリヤを殺したこの男を、何故助けた――?

 動け、動け、動け―――!!
 それは酷く緩慢な動きで、まるで初めて立ち上がろうとする赤子のようでもあった。尊大な男にそのまま殴りかかり、当然敵うはずもなく地に膝をつく。隻腕となった男は俺の傍まで来るといきなり胸倉を掴み上げる。
「――ッ、ゲホッ……」
「貴様……雑種、どういうつもりだ!」
 どういうつもりとかなんとか、この状況で答えられるわけないじゃないか。どこの出血で染まったのかわからない右手で、もがくようにギルガメッシュの左手首を掴む。
「答えろ――雑種!」
 頭がぶれる。投げ捨てるように放り出され、頭を踏まれて地に這っていると気付くのにかなりの時間を要した。さっきよりは楽になった呼吸で咽喉がヒュウヒュウと嫌な音をたてている。
 砂に押し付けられる頬の痛みはもうない。全身が麻痺していた。
「知る、かよ――」
 血と共に吐き出した言葉は、それでもギルガメッシュに通じたらしい。
「おまえが……」

『たわけ、死ぬつもりなど毛頭ないわ……!!踏み留まれ下郎、我がその場に戻るまでな!』

「死ぬ…つもりがない、なんて――言うからだ!」
「何だと……?」
 ザリ……と音がして圧迫がなくなる。足をどけられたからだと気付いたのはいつだっただろう。うつ伏せた姿勢が苦しくてゆっくりと、スローモーションのように寝返る。
「ヒュ…、ケ…ホッ――」
 乾燥した空気に咽喉が悲鳴を上げている。
「俺が、救……えるの…は、お前しか、いなかった、だけだ―――」
「貴様、どこまで偽善を抜かせば気が済む!」
 知るかよ、そんなの。俺だって助けるつもりはなかった。けれど唯一コイツは助けられるかもしれない――そう思ったら体が勝手に動いてたんだから。
 ギルガメッシュが生き残ればまた聖杯を復活させ、あの惨劇が繰り返されるだろうと言う確信に近いものはあった。だけど―――

「だったら――――あんな、生きるのに…必死、みたいな顔、するなよ!」
 くぷっと血が口から吹き出す。が、その割りに身体は楽になってきている。
「大体、自分で……踏みとどまれ、って……言っといて、怒るな!」
 そう怒鳴るとギルガメッシュは無言になった。少し霞んだ視界を開くと、至極不満そうな顔で俺を見下ろしている。
 寒いな――。
 ぼろぼろの自分は寒風の吹きッさらしの中で土の上に転がっているのだから当たり前だ。目を閉じると頬をなでる冬の朝の風がよくわかる。少しずつ冴えてくる感覚に、俺はまた生き続けられるのだとわかる――この男が左手に持ったその剣で貫かれない限りは。

「シロウ――!」
 セイバーの声だ。
「ちょっと、何で負けちゃってるのよ、士郎!」
 負けてなんか無かったさ、ちょっと体力が限界になっただけで。もう一度目を開くと肩に慎二を担いだ遠坂と、二人を庇うように剣を構えるセイバーが見えた。
「セイバーか、よく残っていてくれた。もう一度その姿を見ることが出来て嬉しく思うぞ。」
「アーチャー、貴方が何故?先刻、貴方は確かに気配が消えかけていた筈だ。」
「……フン、これしきの雑種に負けるわけが無かろう?」
 ガキン――とギルガメッシュの剣が鳴る。
「その腕は……?」
「なに、これしきすぐに治る。――雑種にやられたわけではないぞ。」
 緊張感を欠く雰囲気に二人の少女が注意深く、この尊大な男を観察する。
 ぞっとする想像が頭の隅を掠める。今この男が剣を振るえば、きっと俺達は紙のように切り捨てられるだろう。俺達の魔力を足しても、この男の残存魔力にはきっと値しない。

 ――空気が動く。
「そうだな……」
 ふと、男が再び俺を見た。
「王の命令を遂行できた者には褒美を取らせる必要があろう。」
「何言ってんのよ!アンタの褒美なんか、誰がいるもんですか!」
 慎二を投げ捨てて掴みかかろうと飛び出る遠坂をセイバーが押し留めてもみくちゃになる。
「シロウ、一体どういうことなのですか?」
 セイバーの言葉が聞こえないと言うように、二人に背を向けてギルガメッシュが立つ。その余裕の態度に遠坂がまた怒鳴っている。
「答えなさいよ、士郎!」
 チラ、とその様子を見て嘲う。
「望みを言え、我が与えよう。」
 沈黙が流れる。遠坂の無言の圧力と、いつでも剣を構える体勢のセイバーの視線が俺に圧し掛かる。
「借り物の望みすらないのか?」
 笑う声が癇に障る。

「人を傷つけるな。」

 吐き捨てるような言葉に赤い目が細められる。
「王が成すことに異議があるのか?」
 有り得ないという表情の男に俺はギチギチと嫌な音をたてる身体を無理やり起こしにかかる。
「ある。ありまくる。」
「む――」
 起き上がって少し近くなった赤い眼差しは、あからさまに理解不能だと告げている。
「それが、俺の望みだ――守れよ。」
「良いだろう、我とてそれくらいの許容は持ち合わせている。しかし、我を侮辱し歯向かう者には容赦せんからな。」
「無関係な人を巻き込まなきゃ、いい。」
 納得した顔でギルガメッシュは笑んだ。
「我の名に誓ってそれは守ってやろう。」

「ちょっと、全然良くないわよ!アンタがこの冬木の町でしでかしたこと、キッチリ落とし前つけなさいよ。」
「生かし、殺し、与え、奪う……全ては王である我が決めることだ。小娘が口出すところではない。」
 この期に及んでまだ王様発言の男は、左手を腰に当てて俺を見下ろした。
「馬鹿言ってんじゃないわよ!」
「凛、下がって……ここは私が!」
 沸点間近の二人を尻目に、ギルガメッシュは何か妙案を思いついたように満足そうな顔だ。
「そうだ、小僧。お前には今後、王の傍に侍る栄誉を与えよう。」
 その瞬間思い出したのはイリヤの胸の穴――
「なんで――」
 赤く染まった手に引き抜かれた小さな心臓。
「お前なんか、今だって殺してやりたいと思っているのに!」
 男の上着を掴んでそう叫ぶ。まるで宝石屋に転がっていそうな赤い、冷たい瞳が俺を見ていた。
「俺はお前を助けたいなんて思ってなかった!」
 赤い球面に映された己に向かって叫ぶ。
「俺は、お前を助けた俺を、一生許さない――!」

 この街を、俺の過去を、イリヤを、当然のように壊した男を助けたことを、俺はきっと、許せない。

 そしてきっと、この男を許すことも、できない。

 柳洞時の長い階段を、セイバーに支えられながら下りきった。遠坂は寺のどこかから持ってきたのか、慎二に墨染めの衣を捲きつけて引きずるようにしている。
 数日前まではそれなりに車の通りがあった道路には生きるものの気配一つ無い。
「ちょっと、休憩……」
 ドサリと放り投げられたのは俺と慎二だった。額に汗を浮かべた遠坂が道路に座り込む。続いてセイバーも肩で息をしながら膝をつく。
「すまない、シロウ。先刻の戦いで予想以上に力をそがれてしまったようです。」
「気にするな。それより俺はもう大丈夫だから、ここからは慎二を頼む。」
 しっかりと頷いたのを確認して、ガードレールに背を当ててぼんやりと朝焼けを眺める。
 身体は溶鉱炉のように熱を持ち始め、もう大丈夫だとわかる。体が剣で出来ているのなら、それを生み出す熱があればどれだけ剣が折れても再生できる。

 段々と明るくなる空に目を細め、大きく深呼吸をして覚悟を決めて立ち上がる。
「そろそろ……」
 行こう、と振り返って気付いた。
「なんでまだいるんだ?」
 感情の無い平坦な言葉が漏れた。気が抜けかけた体がこわばる。金髪の男が不遜な態度で俺を見下ろしていた。
「文句があるのか、小僧。」
「俺は小僧じゃない、士郎だ。」
「貴様の名前なぞどうでも良い。」
 身長が高い奴に間近に立たれるのは凄く嫌な感じだ。特にコイツみたいに態度がでかい奴だとなお更腹が立つ。
「おまえ、なんで付いて来るんだよ。」
「我に侍らせてやると言ったのを忘れたのか?」
「何だよそれ。俺は知らないからな、お前なんて。どこにでも行けばいいだろ。」
 セイバーを手伝って慎二を抱き起こす。俺と変わらない体格だが、意識がない為か重く感じる。
「シロウ、こちらは私1人で大丈夫です。それより凛を……」
「私も大丈夫よ。それより士郎……その男をどうにかしなさいよ。」
 敵意の篭もった目で男を睨む遠坂の言い分はもっともだ。この男を助けたのは俺なのだから、俺がどうにかするのがスジってものだろう。人を傷つけない、と誓ったと言っても所詮は口約束。しかもたった数十分前まで敵同士で命をかけた鬩ぎ合いをしていたのだ。
 そして何よりこいつは自分以外の人間をヒトと思っていない。そんな奴を――信じられるわけがない。
「来い、乗せてやろう。」
 何が、乗せてやる――だ。いい加減にしろと怒鳴ろうとして、止まった。
「何よ、アンタ。サーヴァントのクセにバイクなんて持ってるの?」
 猜疑まじりの遠坂の感嘆もどこか遠く聞こえる。

「――アグスタ!?」

 大声を上げた俺に遠坂とセイバーが胡散臭そうな顔をする。でも、気にしてられないくらい俺は今、目の前にあるソレに釘付けだった。
 すっきりと整ったボディは黒とグレーのツートンに独特の赤ライン。走る芸術品と称されるそのスタイルは、完璧な設計の基に在る。何よりサイドのSENNAの文字と刻まれたシリアルナンバーが、ソレはホンモノなのだと知らしめる。
「……なんで、こんなの持ってんだよ。」
「我の趣味にケチを付けるつもりか、下郎。」
 違う、このバイクにケチなんかつけられる筈が無いじゃないか。
「2000年式のMVアグスタのF4……セナモデル。全世界で300台限定生産だろ、何でここにあるんだよ。」
「我が購入したからに決まっているだろう。」
 何を当たり前のことを、という顔をされて戸惑う。そりゃあ、金を出せば手に入るものかもしれないが。
「それって、アンタがお金を払ったってこと?それとも綺礼が……」
「王が下賤に金の無心などするか。我が財に困るということは有り得ん。」
 当然のように言い捨ててアグスタに跨る。悠と跨る姿はやけに様になっていて、乗り慣れていることがわかる。よくよく見れば男が身につけているのはパット入りのライダージャケットだ。
「凛、アーチャーには黄金律があります。英雄王たりえるが故、この世界に受肉して以降もそれが働いているのでしょう。」
「じゃあ、一生お金に困らないっていうの!?……そんなのアリ?」
 遠坂の目が一段と険しくなる。前に藤村のじーさんから聞いた話だと原価は諭吉さんが300人くらいで、今の市場価格だと遠坂の宝石よりは安い……というくらいだった筈だ。
「それ、いくらなのよ。」
「5万ユーロだ。そう高いものではなかろう?」
 ユーロという単位がよくわからない俺にはそれがどれくらいなのかはわからないが、遠坂の表情から察すると並じゃないのがわかる。

 そんな様子にも関わらず、メットも被らないままグゥンとエンジンを入れる。
「――乗れ。」
「F4は二人乗りじゃないだろ。第一、セイバーと遠坂と慎二が……」
「乗れと言っているだろう、三度は言わせるな。これ以上喚くのならば王に対する反逆の罪で殺すぞ。」
 助けを求めるように振り返るが遠坂は怒りを隠さない表情で首を横に振る。
「ソイツとは合わない。士郎が助けたんだから、アンタが責任もって面倒見なさいよ。」
「しかし、二人きりなど危険です――凛。今の私は凛のサーヴァント、ですが士郎を守ると言う誓いは違えられない。」
 その様子を黙って見守っていた男が口を開く。
「セイバーの誓いを破らせはせん、安心しろ。」
 ギルガメッシュの言葉にセイバーが唇を噛む。
「その言葉に嘘はないのですね、アーチャー。」
「ああ、我の名に誓っても良いぞ。」
「―――わかりました。」
 俺にはよくわからないが、英霊にとって名前に誓うと言うのは余程の意味を持つことらしい。そうでなければ、あのセイバーが大人しく引き下がるはずが無い。
「しかし……その誓いを違えた時は、わかっていますね。」
 男は満足そうに口の端を上げる。

 無言の視線のやり取りが終わると、赤い目が俺を映し出す。何を促されているのかはわかるが、無理なものは無理だ。
「だから二人で乗るものじゃないから、乗れないんだって……」
「それならば我が今回だけ特別に抱えていってやるから感謝しろ。」
「……え?」
 ギルガメッシュの左腕に右腕を引き寄せられる。奇妙な違和感に相手を見て、それに気付く。
「う、う……う――」
「何だ、騒々しい。」
 俺の動揺は誰にも伝わらない。
「腕……生えてる!」
 少し爛れた痕はあるものの、弾けたはずの右腕が元通りの位置に在ったのだ。驚かないはずが無い。俺の目の前で弾けたんだ――。
「腕ごときで何をそんなに驚いている。」
「じゅ……受肉してるん――だから、普通の人間と、変わらないんだろ?なんで、ニョッキリ生えてるんだよ!」
 多少どもりながら言い切ると、呆れたようなため息が三つ重なった。
「貴様、我をただの人間だと――?ふざけるなよ。」
「シロウ、受肉しようと英霊は英霊――魔力さえあれば一瞬で傷を回復することなど造作もありません。受肉しヒトと同じ外見ではあっても、中身も同じとは限らない。」
「士郎、アンタ……いえ、もう良いわ。とっとと、その男をどうにかしてちょうだい。」

 結局俺はシートに跨った男のその上に乗り、足を固定されてボディにしがみつく。走行姿勢になれば必然的にシートに座れるのは一人だけで、二人で乗ろうとすればどちらかがはみ出てしまう。後ろに乗るとサスペンションを痛めかねない。前に無理やり乗ればちょうど下腹の辺りにシート前部が食い込む。
「行くぞ。」
 返事を返す前に、顔の横をライダースーツの左腕と剥き出しの右腕が伸びてハンドルを握る。前傾姿勢になると自然、背中に男の胸が当たる。むかつきが酷くなる。
 ガクンと一度揺れて、すぐに前髪を風が吹き上げる。道路の凹凸ごとにつむじの辺りにギルガメッシュの顎がぶつかる。一度は塞がったはずの傷が圧迫されたせいで開いたのか、腹がぬるぬると濡れてくる。

 信用できない、好きでもない――ましてや、憎んでいる人間を助けるなんてどうかしてる。

 傷口だけではなく胃が痛くなってくる。後悔が胸を埋め尽くす。 5分もしない内に頭が朦朧としてきた。失血によるものか、精神的なものか、それともただの疲労なのかはわからなかった。思いの外、荒っぽくない運転に俺はボディに体を預けるようにして、目を閉じていた。
 冬にしては冷たくはない風が頬をなでる。それが一瞬、過去に体験した熱風に感じられてギクリと目をこじ開けた。
「着いたぞ。」
 紛う事のない我が家の門の前だった。早朝のご近所に明らかに迷惑になるエンジン音がふつりと途切れて背後からの声に振り返る。その隙を狙ったように両脇を抱え上げられる。たかだか15分のライディングだったというのに、久々の地面はなかなか足の裏に馴染まない。
「案内しろ。」
「……どこへ?」
「我の部屋だ。まさか貴様、我を路頭に放置するわけではなかろう?」
 当たり前のようにそう言われて視線を落とした。確かにこの男を目の届かないところへ置いておくのは危険だ。かと言って、同じ家に……居られるのか?

「わかった――」

 門柱の脇に無造作にバイクのスタンドを立てるのを音で感じながらポケットを探る。 ……鍵が無い。ふと玄関の引き戸に手をかけるとさして力を込めてもいないのに開いた。鍵をかけ忘れていたらしい。
「好きな部屋を使ってくれ……家にあるものも使ってくれて良い。」
「ふむ。」
「だから――……」
 俺に倣うように靴をそろえて脱ぐ男に、一段上から立ったまま見下ろしながら言葉を続けた。
「これ以上、俺に関わるな。」

 言い切ったその時、二つの赤い瞳が俺を見上げた。空っぽな空洞に赤いガラス球が嵌っているかのごとく、無表情で。そして―――
「はじめから雑種に期待などするか。」
 その一言を残して、勝手に廊下を先に進んで行った。


 目が、覚める。
 この酷い倦怠感の出所を探って、ふと瞼を開く。
「ああ、コレか――」
 どす黒くかたまった服を見下ろして重いため息を吐き出す。すっかり乾いた血の跡に、血が止まってよかったと思うより前に洗濯が面倒だという方向に意識が進む。いっそ捨ててしまえば早いが。
「勿体無い。」
 起き上がって更に気分が重くなった。シーツも血染めだ。この様子では布団の綿にまで染みていても不思議じゃない。
「やっぱり……」
 シーツをめくればシーツの染みを一回り小さくした程度の血染みがこびりついている。
「この布団気に入ってたのに。」
 傷口に張り付いている布をゆっくりと引き剥がしながらシャツを脱ぐ。見た目の傷は完全に塞がっているから、頭痛の原因の大半は魔力の喪失と失血のせいだ。箪笥から出した着替えを掴んで風呂場へと足を引きずる。
 ズボンを脱がないまま風呂場に入って湯船に全開で湯を入れる。むっとする湯気に立ちくらみを起こしかけて浴槽のふちを掴んだまま暫らくうずくまる。
「情けない……」
 深呼吸一つを置いて立ち上がる。埃っぽいジーンズは脱衣籠の横に落としてさっさと全裸になってしまう。

 湯気に満ちる浴室は暖かく、先ほどのような立ちくらみはもうない。桶に汲んだ湯を頭から何度も被る。熱を得てやっと思考回路が始動し始める。
 体を確認するがこれという傷はない。ところどころ色素沈着や蚯蚓腫れのようなものはあるが、たった半日前まで生死をかけた戦いをしていたとは思えないくらいだ。腰が浸かる程度に湯が溜まった浴槽にそっと入ると自分の体がまだ冷えていたことに気付く。じんわりと染みる熱に生きていることを実感する。
 ぼんやりと宙を見つめていると聖杯戦争のことが走馬灯のように流れていく。ちゃぷんと音が響く。掲げた手に令呪はない。
「――――あ」
 何かを思い出しかけて、それが何だったかわからなくなった。もう一度手の甲を見る。
「………」

 思い出せなくて手を湯に沈めた瞬間ハッとした。勢い良く立ち上がったせいで視界がぶれる。すべる足を踏ん張ってどうにか脱衣場へ出る。
 冬の冷え込みに鳥肌がたって身が竦む。それを押し殺してタオルで水分を拭う。すぐに服を身につけて廊下に出る。そこで行動が停止する。どうするべきか……。右は居間、左は玄関に続く。玄関に踏み出しかけて、踵を返した。
 一目散に飛びついたのは留守電機能もないただの電話。傍の紙束の中からチラシの裏に書かれた7桁の電話番号を抜き、焦る気持ちを抑えて番号をダイヤルする。
 コール音が耳に響く。 1…2……5………10…………20コールを過ぎても誰も出ない。諦めて置いた受話器を暫し睨んですぐに立ち上がった。ふらつく足を無視して上着を羽織る。何か持っていくものをと辺りを見回して、土蔵へ向かおうとした時だった。

 ――ジリリリリン…………

 電話が鳴った。
「もしもし!」
『……士郎?』
「ああ、遠坂。無事だったのか……良かった。」
『良かった、じゃないわよ。』
「どうしたんだ、昨日あれから大丈夫だったか?まさか歩いて帰ったのか?」
『その点はあの金ピカが手配した車が来たから問題なかったけど。』
「え、そうなのか――じゃあ今は」
『家に居るわよ。やっと休めたと思ったのにアンタが電話なんかしてくるから眠気がどこかにいっちゃったじゃない!』
 そのまま電話は切れた。あの様子なら元気なのだろう。色々聞きたいことはあったがこれ以上アイツを怒らせるのは得策じゃないということは、鈍った頭でもわかる。ふうと気を抜いて畳の上にへたり込む。

 ぼんやりと居間を眺める。壁にもたれていると久々にカラリと晴れているらしい陽光が畳に反射してくる。それが眩しくて逃げるように目を閉じる。
 表を走る車の音。雀が庭木の辺りで鳴いている。時おり吹く風にざわめく草の葉擦れ。昨日までとは明らかに違う、生気に溢れる音。
 遠くで人の声。玄関の引き戸がカラカラとたてる。廊下を歩いてくる足音。桜はもっと静かだし、藤ねえなら玄関に足を踏み入れた瞬間に俺を呼んでいる。そういえばセイバーの雰囲気に似ているかもしれない……。
 薄っすらと目を開けば誰かの姿が見える。背が高い。誰だ――?

「おい、起きろ。」

 聞きなれない声に焦点を無理やり合わせる。
「我が取ってきてやったのだ。後は貴様が用意しろ。」
 白い紙袋を押し付けた男は食卓の上座に座って俺を見ている。胃がむずむずとしてくるのを押し隠して、膝の上のそれを見る。紙袋を覗き込めばふわりと良い香りがする。
 最近では珍しい、漆塗りに綺麗な細工が施された5段の重箱。
「時間が経つと不味くなる、早くしろ。」
 促されるまま、のろのろと立ち上がる。取り皿や箸、言われるままに玉露入り煎茶を淹れる。重箱は一見して高給料亭並みの上品な料理。
「アンタ、これどうしたんだ?」
「口の利き方に気をつけろ。貴様が飢えているだろうと思って我が持って来させた。……早く用意をしろ。」
 憮然と言い放つその内容が信じられずまじまじと男を見る。
「俺を気遣って?」
「勝手にのたれ死なれては堪らんからな。貴様を含めこの世の全ては我のものだ。我のものである小僧、貴様が我の意思に副うのは当たり前であろう。」
「…………」
 促されるまま向かいに座り、箸を手に取る。見た目そのままの上品な味もどこかそぞろで、目の前で上流らしく箸を使う男を盗み見ていた。

 ―――2月16日、正午。俺とギルガメッシュの奇妙な同居生活が始まった。