Uncertain bait/不定餌




「ん……あ、は…、んはぁ……」
 ぴちゃり、ぴちゃりと啜る血は舌を痺れさせる。柔らかい皮膚にぷっつりと浮かぶ紅い滴りを舌先で舐め取れば、引き締まった足がもがく様に揺らめく。
 天井を見つめる双眸が我を見ることはない。それは魔術とも言えぬ初歩的な幻覚。夢を見ている意思なき瞳は時折瞬いて、薄く開いた唇は悲鳴か、喘ぎか―――細い声を微かに発する。

 数分前、この少年が眠りに落ちたのを確認してこの部屋へ忍び込んだ。
 初めてではない。少年は気づいていないのだろうが、もう両手の指の数を超える回数は繰り返している。それは夜であったり、時にはこのように少年が午睡に落ちるときであったり。ようは少年に意識がなければいいのだ。
「ひ…ぐぅ……」
 塞がろうとする傷を舌先でこじ開け、滲み出る血を啜る。じゅるりと音をたてて吸い付けば、傷口のあたりにキスマークのような赤い痣が広がっていく。

 聖杯戦争が終わって数日の後、男は酷い飢えに悩まされていた。食物にではない、それはこの屋敷の家主たる衛宮士郎という少年が過不足なく用意していた。では……何に。
「ぃ…う―――」
 喉を滑り落ちる血は甘い。腹を満たすには余りに少量、しかし欠乏する魔力は確実に満たされていく。―――そう、ヒトに比べれば底なしに近いこの英霊は魔力を欲していた。

 初めの数日、男は女を抱くことでそれを癒そうとした。精気を吸うことで補おうとした。しかしそれも効率が良いとはいえない。せめてマスター相手であれば余分に排されることない純度の高い魔力が得られただろう。しかし男にマスターはない。
 おそらく魂まで食らってしまえばよかったのだ。しかしそれは衛宮士郎に対して「他人を傷つけるな」と約した内容に触れる。男は約したそれを後悔してなどいない。後悔するということは即ち、己の間違いを認めると言うことであったからだ。
 どれだけ抱こうと満たされない魔力に、素人の精気では足りぬ、と判断したのは一週間も経たない頃だ。

 そう、素人で無ければ良い、魔術師であれば精でも血でも、純度の高い魔力が得られる。そして男と一つ屋根の下で暮らすのは二十七の魔術回路を有する少年であった。少年本人に対してであれば『他人』を傷つけるという範疇ではない。
 この場合『他人』がギルガメッシュではなく『衛宮士郎を措いて他に』という意味であればだが。
(これくらいの拡大解釈はかまわんだろう……)
 衛宮士郎という少年にとって自己犠牲は即ち悪ではない。ならば良し。それを最大限に利用する。
 そして男―――ギルガメッシュは少年の寝室へと忍び込んだ。

 魔力をよこせと一言言うだけで少年は従うだろう。例え従わなかったとしても、代わりに他の人間を襲う、と言えば有無もなく従うに違いない。それなのにこうして人知れずそれを行うのは……ギルガメッシュ当人にとっても不本意であり、また自身解せないことであった。
 始めに軽い幻覚で少年が気がつかないようにした。そして物色する。どうするか、と。
 青年が生きた時代では同性愛行為はさほど珍しくもなく、また青年自身も男を抱いた経験がないわけではなかった。ただ、抱くなら女が良かった……とびきりの高潔で豊満な処女を犯すのが良い。骨ばって硬い男を積極的に抱こうとは思いもしなかった。
 ならば答えは簡単だ、血を吸えば良い。

 薄着で寝ている少年の体をくまなく観察して、そっとスウェットの下を脱がせる。下着も一緒に脱がせて右足を抜く。そして右足をグイと押し広げると、月明かりにもはっきりと脈が打っているのがわかる。
 血を吸うのは別にどこでも良い。首や手でもかまわない。しかしそこを選ばなかったのはひとえに、他人からの面倒な詮索をさける為だった。―――ならば、どこから?
 誰にも目に触れない、少年本人ですら気づかない場所。その条件に叶うのはそこだけだった……すなわち、足の付け根に浮き出る血管。

 尖った歯と爪先とで傷を広げるとぷっくりと紅い雫が浮かぶ。舌先でそれを舐め取ればじわり、と体に染みる魔力を感じる。膝裏を押さえる手を強め、唇を一層押し付けて強く吸う。とろとろと染み出るそれを、足りない、と舌で傷をこじ開ける。
 幻覚を見ているからだろう。どこか恍惚とした表情で少年はぼんやりと天井を見つめる。
「は……」
 ふと、男が視線を上げると少年のそれとかち合った。日本人のそれにしては色の薄い瞳が、焦点が合っていないにも関わらず、男を見つめているようだ。いや、そんなはずはない。男の幻覚は間違いなく少年に効果を示している。気にすることなど、何も無い。しかし……
「は…ぁ……あ―――!」
 痛みによるものか、涙を零しながらその手指を金糸の髪に絡ませる。気づかれたのか―――?
 ぴちゃり、と音をたてて舌を離すと、間も無く傷がゆっくりと塞がりにかかる。少年自身わかってはいないらしいこの作用。おそらくあの騎士王ですらはっきりとはわかっていないだろう―――その、鞘の存在。

 数分の後、わずかな赤みを残して傷は完全に塞がった。少年の瞳はまたぼんやりと天井に向けられていて、もう男を見てはいなかった。髪に絡んでいた指も畳みの上に落ちていた。
 そっと、乾いた血に汚れた手を少年の胸に当てる。
 ゆっくりとした鼓動はやや弱いようだ。それは十年前のあの時と似ていた。生命力が著しく落ちている時に感じられる、その……原因。それは間違いなく、男の行為に起因している。
「くそ……ッ」
 舌打ちして男は乱雑に少年の身なりを整える。幻覚を解くと少年はすぅ、と眠りに落ちていった。爪先にこびりついたままの血を舐め取り、足音を立てないまま部屋を出た。

 ここ数日の少年の体調不良は男にもわかっていた。魔力としては微々たる量とは言え、日毎摂取する血液量は増えていると言う自覚がギルガメッシュにはあった。受肉している身では魔力が必ずしも必須というわけではないが、空に近い魔力量が無意識に魔力摂取を促進させている。
 このままでは衛宮士郎を失血死させかねない―――。
 それだけは避けたかった。何故、と聞かれれば困る。なぜなら答えがそこにはない。あえて言うならば騎士王の望みであるから……しかし同時に、彼女の想いを受けるその身が憎い。だから、答えがない。

 そう、思えば十年前。
 あの時。衛宮士郎という少年に初めて触れたあの瞬間。確かに彼女の気配を辿った筈であったのに、そこに在ったのは遺物を埋められた少年。いっそ殺して彼女に繋がる遺物を取り出しても良かったと言うのに。
 何故あの時、男は少年を助けたのか。
 ギルガメッシュとて、聖杯戦争での傷跡は少なくなかった。聖杯の中身を浴びて、たとえ受肉していても。一見してマスターに気づかれる程の魔力を少年に注ぎ込んだのは、何故だったのだろう。
 その答えは、当分出そうになかった。

 電気をつけない居間は、障子越しに射し込む夕日色に染まっていた。
 男が今思うのは、あの少年を死なせてはならないということ。―――その為にはどうするべきか。めぐる思考の中で一つの答えを出した。
 そろそろ少年が目を覚ます。そうすれば夕餉の支度のためにここへ来るのは間違いない。切り出すならその時だ。
 電源を入れたテレビの中ではアナウンサーがとりとめもない話で盛り上がっていた。