Silent fear/潜む恐怖



 『ホーラ』と呼ばれた神聖娼婦を思い出す。
 巫女姫達はその身を汚されようとも、それすなわち厄災を落とすための偉大なる役割であると誇り、高潔であった。神性を帯びた、人ならざるもの。己が生まれ持った神性とは種を異にする彼女たちは、純潔を喪うと同時に巫女としての機能を得る。
 皮肉な話だった。破瓜の血に染まることによって神性を得ることは、淫蕩と紙一重。淫婦に堕ちるか、巫女として律するか、それは女の意思と運に任されていた。
 男は生前、下賎の血に染まった後は決まって巫女姫達を付き合わせていた。何に、と聞くまでもない。争いによって被った血は、乙女の血で洗う。それが禊という名の性交か、浄化という名の惨殺か、気分次第ではあったが。彼女たちは逃げ惑いながらも、心までを男に明け渡すことはなかった。
 神の名の下に約束された彼女たちは、半神如きに穢されないことを知っていた。

 少年の肉は血色を滴らせてはいたが、疵は跡形もなく消えうせていく。それを、少しだけ男は残念に思った。
 破瓜の血と痛みによって神に出逢う彼女らと違い、この少年は神を見ない。喪った純潔を再び取り戻す。男に疵などつけられないかのように。
 強引に己のソレを引き抜くと、ごぽり、と音を立てて白濁があふれ出した。
 繋がったばかりのパスは不安定で、一定量を供給するには今しばらく時間がかかる。急いて直接搾り取ろうとしたが、その瞬間にパスが開いて予想以上に魔力を吸い取ってしまった。あわや死に至るかという、限界量まで……。
 男が繋いだパスは逆転主従的な強引なもので、あくまでも少年から男への一方通行の供給路。逆は想定していない。魔力欠乏に陥った少年が冷たい骸と化すのは時間の問題だった。少年を犯したのは必要に迫られて――で、決して男が意図したものではない。
 どうせなら追い詰めて、その眼に絶望を宿したところで、自尊心ごと喰らうのが男の趣味に合っている。だからこんな、まるで少年を助けるかのような行為は……男自身、解せないことだったのだ。
 つい数分前まで男の剛直を受け入れていたことなど全く感じさせない様子で、すぼまったそこから、白濁が零れ落ちては乾いてかさついた跡を残す。

「たかが、雑種だ―――」
 ぽつりと漏らした言葉は掠れて、やけに弱々しく聞こえた。男は顔を顰めて身体を起こす。無造作に身繕いを整えて湿気たシーツを少年に被せた。
 男は少年の静かな呼吸を聞きながら右手で半顔を覆った。紅色の瞳は揺れて、不安定な内面を如実に物語る。しかし、それを見る者はいない。
 ―――男自身ですら気付かない。
「生かすも殺すも、我の意のままだ……」
 言い聞かせるように、何度も、繰り返す。

 そっと、少年の首に触れた。
 締め上げれば、僅かの間を置いてそれは潰れるか圧し折れるかするだろう。弱々しく、簡単に掴める首。そこに触れて、皮膚の下に蠢く血流を感じる。
 規則正しく脈打つそれを指先に感じながら、男は目を閉じる。生者の触感を確かめるように、なぞる。
「我が生かしたのだ。他の誰でもない、この我が。」
 神などというふざけたものは、ここには存在しない。少年の生殺与奪は全て男の手の内にある。
 それを思って、男は口角を上げた。
 ほの暗いその感情に名前を付けるのであれば、恐らく『愛しい』というものが近い。けれどそれをそのまま当て嵌めてしまうには、男の心はひねくれ過ぎている。

 男の心は空虚だった。
 全てを手中にした英雄王―――その実、彼は望んだ何をも得られなかったのだ。指の隙間を滑る砂流のように、男が得た筈のものは全て奪われてしまう。
 呪うべきは神……唾棄するに相応しいその存在を、男は心の底から憎んでいた。最愛の友も、己が国も、永遠の命も、……残らず失くしてしまった。
 男は全てに満ち足りていて、同時に、全てに飢えていた―――それ故に気付かない。無意識に浮かべた己の表情に気付かない。
 神という不条理による真の絶望を知る男は、その言動と裏腹に全ての希望を閉ざしていた。

 カチカチとジッポを鳴らして、黒芯のタバコを咥える。すぐにくゆる紫煙は、じんわりと広がり、微かな香りを残して霧散する。
 少年が横たわる寝台に腰を下ろして、今は生意気な眼が閉ざされている瞼にかかる前髪を払う。
「シロウ……」
 馴染まないその単語を繰り返し、一口飲んだだけのタバコを灰皿に押し付けた。
「衛宮、士郎―――」
 単語を重ねるごとに、理解できない燻りが狼煙のように濃くたちこめる。隠された火種に、男はまだ気付かない。少年もまた、気付かない。
 僅かに唸る少年が膝を曲げ、寝返りを打つ。肉付きの薄い臀部の傷は完全に塞がったのか、苦悶の表情は消えている。髪に触れていた手で少年の左手をとった男は、その付け根から生えた様な所有の証に口付けた。あくまでも、自分の隷属に対するように。
 けれどどこか、躊躇うことを隠せない様子で―――。

 男は『ホーラ』と呼ばれた神聖娼婦を思い出す。
 穢れることを知らない彼女たちの気丈な眼差しが、少年に重なった。まるで、少年が手に入らないモノであることを知らしめるように、思考の端にちらつく。
 男は軽く握り締めた拳を振り下ろす。
「―――……ッ!」
「いつまで眠っている、雑種と呼ばれたくなくば、それに見合う働きをしてみろ。」
 血の混じった痰を吐き出す少年を見下ろす男がつける仮面は、諦めに彩られていた。