夜も深まる頃。
雨足は弱まる気配もなく、暑い雲のむこうに月は隠れたままだ。

「せっかくの七夕も、これじゃあ台無しね」
「そうですね、残念です」
遠坂の声に続いてセイバーも言葉どおり残念そうに空を見上げる。
お茶を啜る藤ねえもどこか残念そうに窓を見やる。
台所で食器を洗っていた桜が戻ってきて人数が揃った。

ささやかだけれど、七夕だからと豪勢にした夕食もこの天気では味も一段落ちた気がした。
「さぁて、そろそろかえろっかな」
「あれ、藤ねえ。珍しいな……」
いつもならまだうちでゴロゴロしている時間だ。
「そろそろ期末テストの内容を考えなきゃいけないのよぅ」
むぅ、と口をとがらせた藤ねえはコキコキと首を捻る。
「士郎も受験生なんだから、ちゃんと勉強するのよ?」
立ち上がる藤ねえに続いて桜もパンパンと膝を払って立ち上がる。

「それじゃあ、わたしも失礼しますね。兄さんが心配するので……」
「あー、じゃあ送って」
言いかけた俺の言葉をさえぎって遠坂がセイバーを促して立つ。
「いいわよ、士郎。どうせわたしたちも帰るから、桜一人くらい途中まで送っていくわよ」
「え、でも……」
「大丈夫です、シロウ。私と凛がついている。貴方もたまにはゆっくりとしていてください」
そうそう、と頷く遠坂にグイッと肩を押し戻されて、ぽすん……と腰を落とす。

「先輩、心配はいらないですよ?最近は物騒なこともなくなりましたし、それに姉さんとセイバーさんがいるんです。どんなことがあってもへっちゃらです!」
むんっ、と力こぶを作るまねをする桜がフフッと笑って居間と廊下を隔てる扉を開ける。

「見送りもいいから、たまには気を抜いて休んでなさいよ」
「それではシロウ、ごちそうさまでした」
「じゃあねー、しろー!」
「それじゃあ先輩、失礼しますね。おやすみなさい」


……パタン


かしましい話し声は扉一枚を隔てたとたん、すごく遠くのものに感じられた。
それも暫くすると完全になくなる。
カチカチと時を刻む時計の音ばかりが大きく聞こえて、自分の家だというのにどうにも居心地が悪い。

ほやほやと湯気をたてる湯飲みを見下ろすと茶柱が立っている。
「うーん……」
とりあえずごくりと茶柱を飲んでしまう。
迷信を信じているわけではないけれど、良いことが起こればそれはそれで良いかと期待を込めて。

つけてみたテレビもよくわからないドラマやバラエティばかりで、チャンネルを一巡したところで電源を落とした。
そのままごろりと横になる。
蛍光灯の輪っかがみっつ。
その眩しさに目を閉じると、どこからともなく眠気が訪れる。
自分にとってはほんの瞬きほどの時間。
だけど、次に目を開いたときには時計の針はもう随分と進んでいた。

しぱしぱする目を擦って体を起こす。
時刻は日付が変わるまでまだ少しある。
ふと、雨音がしないのに気づいて障子を開けた。
「ああ、晴れたのか」
曇ったガラス戸を擦れば、雲も薄くかかる程度で満月がはっきりと見える。
街に近いこの辺りでは天の川は綺麗には見えないけれど、今頃一年越しの再開を喜び合っているのだろうか。


いきなり、いてもたってもいられなくなって体を起こした。
そのまま庭へと出る。
目指す先にはさっきまでの雨でしっとりと濡れそぼった、かって知ったる土蔵。
水分を吸ったせいか、少し重い木戸を開けて中に入ればがらくたが散乱する俺の居場所がある。
庭のぬかるみを歩いてきた靴をそこで脱ぎ、裸足で土蔵の真ん中まで歩いていく。

月明かりが窓から差し込んできて中の様子は十分にわかる。
畳んで置いてある毛布をばさりと被って土蔵の真ん中に寝転がる。
睡魔によく似たものが俺を引きずる。
どこへ連れて行かれるのかわからない曖昧な感覚が体を雁字搦めにして、俺は意識を闇に落とした。


そうしてどれくらい寝ていたのだろう。
ふと、何かの気配を感じて目を覚ました。
どす黒い視界、それは遠い窓からぼんやりと差し込む月明かりで土蔵の天井だとわかった。
体を起こそうと腹筋に力を入れたが、グイと何かに肩を押されてまた毛布に転がった。

「あ……?」
目の前には良く見知った……そして失った筈の相手の顔。
少し不機嫌そうな表情は、あの頃はよく見ていた。


「アーチャー」

真名を口にはせず、そのクラスで読んだ。
こいつだって、自分に自分の名前で呼ばれたくはないはずだ。
ごつい手が俺の顔をなでる。
その手つきはやたら優しくて、泣きそうになる。


そう、これは夢だ。
アーチャーはあの時、俺の目の前で姿を消した。
あの笑顔で、もう大丈夫だからと、けれど寂しさを隠せないあの顔で。

「アーチャー」

何度呼びかけても返事はない。
その代わりそっと口付けを与えられた。

おかしい。
アーチャーとこんなことをしたことはない筈なのに、その唇の感触がやたら慣れ親しんだもののようだ。
小さく笑った俺に不思議そうな表情を見せる。
あんたのそんな顔、初めて見た。
同盟を組んでいた時も、敵対した時も、最後のあの時も。
一度だってそんな隙だらけの顔を見せたことがあっただろうか。

ああ、そういえば柳洞寺でキャスターとアーチャーがやりあった後。
『そう。なら、アナタたちは似たもの同士という事?』
キャスターの言葉の後に見せたあの顔は、しかめっ面だったり、憎たらしいくらい余裕の面だったり、そういうのが吹っ飛んだかのような素の表情だった。


「はは…七夕にあんたに会うだなんて、笑い話にもならない」


だってこれは夢だ。
夢ならば覚めてしまえば終わり。
いつかまた会えるかも、という期待すら打ち砕かれるのだ。
目の前の男はにやりと笑って俺の髪を撫でる。

『衛宮士郎』

かつての凛とした声が耳によみがえる。
そっと額に、そして頬に口付けられた。


不思議なくらい、充実したその瞬間。


不意にまた眠気に襲われた。


アーチャーの唇が動く。
何を言ったのか尋ねようとして、叶わない。
重油に飲み込まれるように、体が沈んでいく。


『―――士郎』


確かにそう呼ばれて、俺は無理やり笑顔を作った。
それはアーチャーに届いただろうか。
確認することはできない。
目は閉ざされ、耳も鼻も口も塞がれてしまったかのような無の中に放り込まれた。

「士郎……」

ふと、目が覚めた。
視界に移るのは薄暗い木板の天井。
そこにぽっかりと電気の消された蛍光灯がぶら下がっていて、その手前によく見知った顔がある。


「ア…チャ―――」


呆れ顔のその男の表情にはほんの少しだけ疲れが見える。
体を起こそうとしたが、体中に走った激痛に驚いて布団に沈んだ。

「無理をするな、やっと熱が引いてきたところだ」
「ねつ……?」

アタマが話についていけてない。
一体何の話だろう。

「まったく、季節外れの風邪を引いたお前は真性のたわけ者だ」

なるほど、風邪を引いていたのか。
道理で声は上手く出ないし、喉はカラカラだし、関節はギシギシと軋んで痛い筈だ。
頭が重いのは氷嚢を乗せられているから。
すぐそばにアーチャーの顔が見えるのは……看病していてくれたのだろう。


「あ…夢……かぁ」
やっぱりそうだったのだ、と思うとなんとなく寂しい。
「まったく、こちらはお前を心配しているというのに。随分と悩ましい寝言だったではないか?」
そう言って俺の目尻をぬぐう。
寝ていた間に泣いていたらしい。

そっと男の様子を伺うと、何とはなしに不機嫌なようだ。
「体調が戻ったら仔細を問いただす、覚悟しておけよ」
そう言って、俺の汗を拭いていたらしいタオルを洗面器に投げ込み、それを抱えて部屋を出て行った。


アーチャーが部屋を去って初めて、外が雨なのに気付いた。
時計を見れば、七夕を過ぎてしまっている。
この様子だと昨夜からずっと降っていたに違いない。
牽牛織女は河を渡ることはできただろうか。
少なくとも俺は、夢の中で失っていたはずのものを現実では引き止めていた。


「でも…問いただすって……」

ここのところのアーチャーはやたら積極的だ。
何に、とは言わないが……とにかく隙有らばと狙っているフシがある。
俺がマトモに魔力を供給できるマスターだったら良かったんだけど……そんな望み薄な話はしない。
『問いただす』の内容をアレコレ考えて、結局ソレに至る辺り俺もアーチャーと似たようなものなのかもしれない。
まあ、元を正せば同じだけれど。


心なしか上がったように思う熱は、アーチャーが帰ってくるまでに落ち着いてくれるだろうか。
妙にうずく体を持て余して、大きくため息をついた。


一跨ぎしかない溝をはさんでお互いに一歩も動けない俺たちは、結局のところ牽牛織女となんら変わりはないのだ。
はたして、最初の一歩を踏み出すのは俺か……それともアイツだろうか。


雨の音がやたらうるさくて、俺は氷嚢を押しやり布団に深くもぐりこんだ。