3月1日、朝。
目が覚めたのは6時半ちょうど。
障子越しの朝日が初春らしく柔らかく差し込んでくる。
暫らく布団の中で目を瞬かせてのそのそと体を起こす。
布団を出るとまだ肌寒い。
隣には綺麗に畳まれたアーチャーの布団。
二組纏めて押入れに片付けて、寝巻き代わりの浴衣を脱ぎ落とし、ハンガーから下ろした襟付きシャツと制服に着替える。

何だかんだといって、アーチャーとの二人暮しも一年以上になる。
最近は交代制でゴミ出し・洗濯・風呂・食事の用意などを分担していたけれど、今日だけは全部アーチャーが請け負ってくれるらしい。
――今日は3年間通った穂群原学園を卒業する日だ。

文机の上に置いていたチェーンに通したリングを手に取って首にかける。
金色のそれは純金製で、アーチャーが俺に「婚約指輪」として寄越したものだ。
一度は保留にしたけれど、突っ返されるのを拒んだアーチャーの提案で、この二ヶ月は服の下にひっそりとおさまっている。

いつからかアーチャーは国内屈指の某建設会社、その社長付き第三秘書なんてのをやってる。
そのことを知ったのは正月明けに藤村邸へ年始の挨拶に出向いた時、たまたま出くわした当の社長本人から「やあ、アーチャー君、明けましておめでとう。今年もよろしく頼むよ。」などと親しげに話しかけられたのを不審に思って問い詰めてからだった。
やくざ屋さんが建設会社に転向という話は昔ではよくあった話らしくて、その会社もそういう元ヤン企業だったらしい。
それで古い付き合いの、しかも上役だったらしい藤村組に年始早々挨拶に来ていたという事だ。

大きな企業の偉い人は漏れなくどこか黒いところがあるらしく、第三秘書とは名ばかりのボディーガードなのだそうだ。
会議などに出向く時限定でも構わないから誰か紹介して欲しいという話が藤村組に入り、回りまわってアーチャーに話がいったそうだ。
週に何度か数時間出向くだけだという話で、アーチャーは俺に気付かせないつもりだったらしい。
体張った仕事だから給料はかなり良い。
そして、気を使う仕事だから魔力消費も激しい。

俺とアーチャーはちゃんとパスが繋がっている。
最もそれで供給できる魔力は微々たるもので、初めのうちは週一くらいの頻度で直接供給していた。
それが夏頃からいきなりその頻度が上がっておかしいと思っていたが、つまりそういうことだったのだ。
「お前は来年から大学生だろう?授業費も馬鹿にならんし、私とていつまでもタダ飯食らいではな。」
問い詰めた俺にアーチャーはしれっと言い放った。
確かに貯金だけでは心もとないので奨学金付きの大学にスポーツ推薦で入るのだけれど……だからって、俺に黙ってる事はないだろうに。

廊下に出ると雨戸は閉まったままで薄暗い。
アーチャーが俺を起こすと気遣って閉めたままにしているのだろう。
ガラス戸を開けて、木の雨戸をガタガタと開けていく。
薄い青空に刷毛で払ったような薄雲が流れている。
風が少し強そうだ。

居間に近づくと朝食の良い香りが漂ってくる。
その前に洗面所で顔を洗って頭をクリアにしておく。
「おはよ……」
「起きたか、おはよう。その様子ではよく眠れたようだな。」
「……お陰さまで。」
翌日が卒業式だって言うのに昨夜がっついてきたのはお前だろう、とジト目で見てやればそ知らぬ顔で台所に篭もるアーチャー。

自家製の大根とじゃがいものこっくり煮、鱈のホイル焼き、自家製野菜をふんだんに使った味噌汁、アーチャーがせっせと漬けた白菜の漬物、それに白飯。
どれも品良く盛り付けられて美味しそうだ。
アーチャーが家庭菜園を作り始めてからというもの、倹約の名の下、食卓に上る野菜は偏りつつあるというのにアーチャーの料理レパートリーは計り知れない。
料理の腕もそうだけど、飽きない食卓作りという点でもやっぱり勝てない。

「おっはよー、士郎、アーチャーさん!」
いつもより綺麗な格好の藤ねえがいつものようにダダッと居間に駆け込んでくる。
「藤ねえ、服を汚すなよ?」
「んもー、士郎ったらまたわたしをバカにしてるね!」
同じことを言って、3年前、入学式の日に悲惨なことになったのを覚えていないらしい。
やれやれとため息をついたところでアーチャーがエプロンを外しながら食卓につく。

3人揃って手を合わせて朝食の始まり。
俺の担任を3年間務めた藤ねえは、アレコレと振り返ってはアーチャーと一緒に俺をからかう。
そうやって盛り上がっているけれど、藤ねえが本当は寂しがっているのだとわかる。
朝食と夕飯以外で顔を合わせる事がほとんどなくなるだろう。
そう思うと俺もやっぱり寂しく感じる。
俺一人の時でもこのだだっ広い屋敷が辛気臭くならずに済んだのは藤村大河という人がいてこそだった。
『衛宮士郎』という人間の人生において彼女は確かに姉に違いない。

「あ、藤ねえ。そろそろ出ないとやばいんじゃないか?」
「ホントだ、わわ、士郎、後は頼んだ!」
トントンと胸を叩きながら藤ねえはカバンを引っ掴み、勢い良く居間を出て行った。
俺は卒業生だから9時半集合だけど、教師はいつも通りらしい。
「ごちそうさま……あ、片づけくらいは俺がやるよ。」
「制服が汚れる、甘んじて受け入れろ。」

食器を流しに運ぼうとしてアーチャーに奪われた。
することも無くなってテレビをつけてぼんやりと眺める。
トン、と目の前に湯飲みが差し出されてそれを受け取る。
貰いものの玄米茶がほかほかと湯気を立てている。

「アーチャー、そういえば今日、仕事は?」
「休みだ、お前の卒業式の日におちおち仕事なぞしていられるか。」
現界して一皮剥けたアーチャーはこういうヤツになってしまった。
「仮にも英霊なんだから仕事くらいちゃんと行けよ。」
「それは英霊差別というものだぞ。それに卒業式に参列する家族が誰も居ないのはお前も寂しかろう?」
「んなわけあるかよ。」

ダークグレーのスーツに着替えてきたアーチャーはニヤニヤしながら俺を見る。
アーチャーは仕事の時には真面目ぶって銀フレームの伊達メガネをかけている。
ビジネスマンを装うにはメガネは都合の良いアイテムだとか。
それに見慣れているから、素顔でスーツというのはまた印象が違う。
たぶん、どこから見てもビジネスマンではなくて……ヤのつく怖い人。

湯飲みを片付けて身繕いをしていたら家を出るには丁度良い時間。
「ちょっと待て。」
洗面所から出ようとしたところでアーチャーに呼び止められた。
「何だ……ぅわ!」
ジュワっと何かが頭に撫で付けられる。
「髪がまた伸びているな……」
「ああ、最近散髪してなかったな、そういえば。」

アーチャーがいつも使っているムースを髪につけられたらしい。
気になって聞いたところ、アーチャーのオールバックも魔力を使っていたらしい……ので現界してからはドラッグストアで安売りされているムースを大量買いしてくる。
多分、童顔を俺以上に気にしてるから。
まあ最初は俺との同一性を疑われないためだったらしいけれど。
軽くクシで梳かれ、アーチャーの手がくしゅくしゅと乱していく。
「ふむ、まあ良いだろう。」
鏡を覗き込んでみれば無造作ながらに見目良く纏まっている様子。

「お前、こういうの上手いよなあ。」
お世辞にもセンスが良いとは言えない俺と本当に同一人物なのだろうか。
信じがたい。
「それよりそろそろ出た方が良いだろう。」
「あー…うん、ありがとな。」
礼を言うとアーチャーは何でもない風に肩を竦めて見せる。

今日は特別な日だからスニーカーではなく学校指定の革靴をはくけれど、一応スニーカーも持っていく。
アーチャーの横に並んで家を出る。
深山町の中央交差点に出て坂を登っていくとちらほらと保護者同伴の顔見知りを見かける。
「お前と俺だとどうなるんだ……」
「保護者と生徒だろう?」
「でも、父兄って感じでもないだろ、見た目。」
「では婚約者同伴で卒業式。」
「バカ言ってろよ。」

手も繋がないし腕を組んだりもしない。
肘がアーチャーに触れる程度には寄り添って歩く……それが俺の限界だ。
正門をくぐると在校生から祝花を胸につけられ、先に体育館へ入るアーチャーと別れて教室へ向かう。
3年C組の教室に入ると久々の顔が次々に声をかけてくる。
「よ、衛宮〜」
半月ぶりの後藤がニヤニヤしながら声をかけてくる。

「どうしたんだよ、気味悪いぞ。」
「気味悪いなんて酷いでござるよ〜」
「はいはい、ござるござる。で、何だよ?」
軽くいなせばノリが悪いとブーイング。
「アレが例の彼氏なんだな。」
「彼氏って……アーチャーのことか?」
「そうそう、ガッチリムッキリでブラックスーツのにーちゃん。MIBとかの映画に出てきそうな。」

うんうんと一人で頷く後藤はハァ、と大げさにため息をつく
「あれじゃあ、衛宮がほだされてもしょうがないわな。」
「衛宮が何にほだされたのだ?」
背後から聞こえた声に振り返れば2ヶ月ぶりに会う一成が疲れた表情で立っていた。
「久しぶり、元気にしてたか?」
「お、柳洞〜、リハ終わったのか?」

「久しいな、衛宮。……で、衛宮が誰にほだされたんだ、後藤。」
一成はおそろしく真剣な顔で聞いてくる。
「まさか……遠坂などではあるまいな?」
ガッチリと両肩を掴まれて思わず仰け反る。
「え、だって衛宮、遠坂とはもう別れたんだろ?」
「いや、別れる云々の前に付き合ってもないって。」
「……なら良いのだが。」
コホンと咳払いをして俺の隣の席に腰を下ろす。

元々何か因縁付いたものがあったようだけど、卒業生答辞を遠坂がやることになってかなりマズイ雰囲気になっているとは聞いて知っているから余計な事は言わないに限る。
「それで?」
それでも気になるのか後藤を促す一成。
「ホラ、衛宮んちに居候してる色黒の兄ちゃんだよ。」
「む、それはアーチャーさんのことか、衛宮?」
「……だろうな。でもほだされたとかっていうのは違うような。」

難しい表情のまま一成はいきなり般若心境を唱え始める。
「お、センセ来たぞ……っひゃあ、今日は一段とハイテンション……衛宮、どうすんだ?」
「俺に聞くなよ。」
藤ねえは教室に入ってきた段階で既に目が真っ赤になっていた。

教室を出て卒業式が行われる体育館へ。
入り口が見えてくると、それまで積もる話に盛り上がっていた面々も自然、大人しくなっていく。
つつがなく執り行われる式。
名前を呼ばれて順に卒業証書を授与されていく。
いよいよ自分の番になって校長から手渡しで受け取り、壇を下りる。
ふと視線を向けた先にアーチャーがいて、複雑な表情で俺を見ていた。

式が終わり一度教室へ戻る。
この後は穂群原学園の卒業式特有の賑やかな送り出し行列で3年間過ごした学校を出て行く。
この送り出し行列は一発芸やら何やらをして校門を出るというもので、部の後輩まで巻き込んだり、派手な仮装をする奴も珍しくない。
例年、この送り出しの時に後輩が巣立つ先輩にダメもとで告白したり色んなイレギュラーがあって見ているだけならとても楽しい。
後藤はクラスの男子複数名を巻き込んでヒゲダンスでパフォーマンスするらしい。
慎二は桜とライダーの協力を得てどこから連れて来たのか、白馬で門を駆け抜けるとか。
一成は今日は無礼講とばかりに、持参した風呂敷から墨染めの衣、袈裟、数珠を取り出し、更に妙な馬の被り物を被っている。

やる順番はまずクラスごとに籤引きして、あとはクラス内で相談して決める。
C組はラスト、そして俺は……そのトリを務める事にいつの間にかなっていた。
「衛宮、あの高さで本当にできると思ってんの?ていうか、絶対に地味だよ。」
慎二があからさまにため息をつきながら俺に言う。
「だって仕方ないだろ、他に思いつかなかったんだから。」
陸上部のクラスメートに頼んで用意してもらったものが校門のすぐ横に置いてある。

筆頭のA組、初っ端は赤いチャイナスタイルの遠坂が空手部の男子をカンフーであっさりと打ちのめしつつ校門を出て行った。
勿論複数の男子が我先にとその後を追おうとしたのだが、当の本人にやられてしまっていた……あかいあくまは健在だ。
その後も盛り上がり盛り下がりを繰り返し、ラストのC組となる。
後藤たちのヒゲダンスで始まり、それに続けとかなりの盛況だ。
白馬で駆け抜けようとした慎二だったが馬が言う事を聞かず、挙句、朗々と馬の被り物でお経を読む一成に驚いたのか慎二を振り落とさん勢いで校門を駆け抜け、止まらない馬を桜とライダーが追いかけていくのが見えた。
俺の為に用意されたソレを使ってバレー部の女子が華麗にアタックを決めて校門を駆け抜ける。

そして残ったのは俺一人。
スニーカーに履き替え、靴と上着を入れたカバンを先に出た一成に預け、シャツのボタンを二つ外す。
数回屈伸して、軽く跳ねる。
目の前数十メートル先には校門の高さに設定された高飛びのバー。
俺の身長より高いそれの前に立ち深呼吸。
この一年でかなり鍛えられた魔力で脚力を水増しすれば軽いけれど、それじゃあズルになる。
幸い、校庭から校門にかけてはやや下り気味。
それでも陸上部のヤツらは無理だと言っていた。
とにかく集中して、助走でスピードを得て、鍛えてる脚力で跳躍を得て、後は飛ぶ場所を間違えないこと。


周りの歓声が遠のいていく。
一歩。
それを踏み出すと音もなく景色が流れていくようだった。
数秒後、ふわりと浮き上がった後、真っ青な空にキラリと光が見えた。


「やりやがった、あいつ!」
「衛宮、凄いぞ!」
バーは一寸も動かずそのままだ。
マットの上に大の字になったまま俺は空を見ていた。
胸に手をやると、あの金色のリングが当たった。
「これか、さっき光って見えたの……」
起き上がってそれを掌に乗せて眺める。

ふと、周りがやけに静かなのに気付いた。
振り返ると、数歩先にアーチャーが立っている。
「何……?」
手を取られ、立ち上がらせられる。
周囲を見回せば、クラスの男子が両手を広げて野次馬が近づかないようにしている。
「……何だ?」

徐にアーチャーの両手が首に添えられる。
首を絞められるかと固くなった一瞬、ブチッとすごい音がした。
「嘘、何だよ……」
怯えているのが言葉尻に浮かぶのが情けない。
アーチャーは引きちぎったチェーンの片端をつまむとするりと抜け落ちるその金色の輪を掌に受ける。
「おい、アー」
名前を呼び終わる、その前。
ばさり、と視界が赤く埋まる。

むせ返るほどの甘ったるい香りは、胸に押し付けられた真っ赤な花束から漂う。
「保護者公認の元に再度言おう。」
「保護者……?」
流された視線の先を追えば、藤ねえが手を振っているのが見えた。
「藤ねえ?え、あの……アーチャー?もしかして……」
背中をぞくぞくっと何かが這い登るような感覚。


「衛宮士郎、君を一生幸せにする……私を受け入れてくれるか?」

心臓が煩くてアーチャーの声がうまく聞き取れない。

「君は私の幸せを願うと言った、ならば今、ここで私に……君の言葉で約してくれ。」


ああ、バカだ。
バカだよ、こいつ。
しっとりとした花に顔を埋めて言葉を探す。
けれど気の利く人間でもない俺が簡単に見つけられるはずもない。

「バカ……お前、ほんっとに……恥ずかしすぎ―――」

俺の前に膝をついた男を見やれば、確信しきった顔で俺の言葉を待っている。
こいつがバカなら俺もバカだ。


「いいよ、俺がお前を幸せにする。だから、お前も俺を幸せにしてくれなきゃダメだからな。」


差し出した左手の薬指に金色のそれが嵌められる。
一度も嵌めた事はなかったけれど、しっくりと違和感なく薬指に嵌った。
がさりと、花束の包装が窮屈げに鳴る。
もうここまでしてしまったんだ、構うもんか。
差し出した左手をそのまんまアーチャーの頬に宛がって、そっと口付ける。

夥しいクラッカーと口笛、拍手の嵐。
多分、殆どの人間は送り出し行列のトリを飾る演技だと思っているだろう。
俺の左手と花束の影になって、本当に口付けたかどうかなんて当の本人にしかわからない。
やんやと騒ぐギャラリーの見守る中、俺を抱えあげたアーチャーはそのまま歩き出す。

「衛宮士郎はこれで私のものになったぞ。」
「うーん、やっぱりOKしちゃったかあ。」
とすんと下ろされて振り返れば口惜しそうに唸る藤ねえと、思わせぶりに笑う遠坂、嬉しそうに微笑むセイバー、今にも泣きそうな桜、赤い顔の一成、気を失ってライダーに支えられる慎二、その他諸々の顔見知りが勢ぞろいしていた。
「仕方ないなあ。切嗣さんが亡くなる前に士郎を頼むって言われたのはわたしだし、士郎がOKしたなら……わたしが認めないわけにはいかないわよぅ。」
グスンと本気で泣いている藤ねえにつられたのか桜までハンカチに顔を埋めて泣き始める。

「とりあえず……」
ズビッ、と洟をかんで藤ねえが顔を上げる。
「あんたが幸せならそれが一番、胸張っていきなさいよ!」
「……うん」
「大丈夫だよ――」
頷いて言葉を繋ごうとした時、耳に覚えのある……けれどどこか記憶のそれとは違う声が遮った。

見上げたアーチャーは柔らかく微笑んでいた。
「もう幸せだから……な、エミヤシロウ……」
自分に言い聞かせるように、俺を抱きしめたアーチャーの腕の中、もう一度空を見上げる。
雲がない青い空。
視線をずらせばアーチャーがそこにいた。

ある、晴れの日だった。