この間、土蔵を掃除していて見つけたもの。
見覚えのある、少し崩れた字で書かれたそれは親父の日記帳だった。
「うわ、ものぐさのじーさんが?」
筆不精にも程がある、そんな親父の字で綴られていたのは俺がこの家に来てから日記――ともつかない、俺の行動記録だ。

『○月×日
士郎はまた夢を見ている。
眠りが浅く時折無呼吸状態でもがいては目を覚ます。
彼を助けたことに悔いは無い。
苦しむその姿を見る度、それが正しかったのかがわからなくなる。』

『△月□日
大河ちゃんが遊びにきて、また士郎に何かを言っていた。
彼女も彼女なりに士郎のことを気にかけてくれているようだ。
士郎はようやく私に気兼ねせず話しかけてくれるようになった。
しかし「じーさん」呼ばわりは酷い……照れ隠しだとわかってはいるが。』

『□月◇日
久々の我が家の玄関先に士郎が立っていた。
何日に帰るとは伝えていなかったので驚いた。
もう随分と寒い季節なのに薄着のままで心配だ。
藤村の親分さんに士郎が毎日玄関先に立って私を待っていたと聞かされて驚いた。
暫らくは家にいよう……私の身体もそろそろ辛くなってきた。』

『×月△日
もうすぐ士郎の誕生日だ。
とびきりのプレゼントを……と言いたいところだが、私がそれまでもつかどうかが問題だ。
士郎は素直で優しい子だ、しっかりしている。
だから余計に心配だ。』

『×月◇日』

途切れた日記の最後の日付は親父が逝った前の日。
いっつも家を空けて、どこかへ行って、俺はいつも一人ぼっちだった。
けれど寂しい……なんて言える筈が無かった。
与えてもらったものの大きさを考えれば我がままなんていえるわけがない。

「ぁ……」
土蔵のはめ込み窓から西日がギラリと目を射した。
先日直したばかりの柱時計はもうすぐ夕方の5時。
この日記帳を見つけて以来、毎日のように土蔵に篭もってたった一冊きりのそれを見る。
ふぅ、と息をついてもとあった蔵箪笥の一番奥に仕舞い込む。
「さて、晩飯でも用意するか……って、ぅわ!」

「やけに熱心だったが、何を見ていた?」
「あああああー、アーチャー、いつ戻ってきたんだよ!」
「つい今しがただが?」

少し拗ねたように眉を寄せて抱き寄せられた。
「――、ん……」
重なった唇の隙間から熱くぬめったアーチャーの舌が潜り込んでくる。
心ごと舌に絡め取られて息が荒くなる。
そっと薄目を開けてみれば間近のアーチャーの目が俺をじっと見ていた。
「ふ…はぁ――ぁ、おかえり」
「ただいま戻った。」

アーチャーは新都の建設会社で二級建築設計士として働いている。
どこをどうやったのか、日系3世のブラジル人としての国籍を取得し、卓越した日本語能力と特技が認められ日本国籍を取得して『衛宮アーチャー』となるに至った。
帰化したとなれば名前が『アーチャー』だとしても違和感はないし、まさか『衛宮シロウ』になるのではと危惧していた俺のそれは杞憂になった。
これが成せた影にはどうやら藤村組が絡んでいるらしいが……きっと気にしてはいけないことだ。

「なあ、帰ってきてのコレ、やめないか?」
「何故だ?」
「だって、殆ど毎晩、魔力供給してやってるだろ。」
「なに、お前の小さな器からこぼれる魔力を吸っているに過ぎん。それに1度に大量摂取するより、何度かに分けた方がお前の負担も少なくて済むだろう?」
嘘じゃないから反論できない。
むっ、と思わず突き出した唇にまた、ちゅ、と音をたてて口付けられる。
「おい、それは供給じゃないだろ!」
「なに、キスをねだっているのかと思ったぞ。」

ニヤニヤと笑うアーチャーの鼻をつまんでやる。
「コラ放せ、夕飯の支度ができないだろ。」
「おや、私が帰ってくるまでに用意して待っていてくれるのではなかったか?」
「エロ親父みたいな手で触ってんなよ!」
腰の辺りで蠢く手の甲をグイッとつねってやると、ようやくゴツイ腕の中から解放された。
「今日は鍋だって言っただろ。出汁は用意してあるからあとは具を用意するだけだぞ。」
「なんだ、つまらん。」

過剰なスキンシップは本当は嫌じゃない。
むしろこうやってベタベタと馴れ合うのは好きだ。
口にするのは憚られるけれど、コイツはそこのところもちゃんと弁えた上で俺を甘やかす。
元が同じ人間だから言わなくてもその辺り熟知しているらしい。
けれどコイツ自信もやっぱり嫌じゃないようだから、結果的にひっついていることが多くなる。

土蔵を出て母屋へと肩を並べて歩く。
この一年で背が伸びたけれど、隣の男には追いつけない。
そろそろ成長が止まる兆しが見えてきて、やっぱり……と思うのも慣れっこだ。
いつまでもチビ扱いされるのは癪だけど、理想に追いついてしまったらそれはそれで変な感じだ。
きゅっと握られた温かい掌に頬がほころぶのは敷地内で他に誰も見ていないから無問題。

縁側から中に入って一度部屋に戻る。
埃っぽい服から室内着に着替えてついでにエプロンもつける。
横でネクタイの結び目に指を突っ込んでシュルシュルと解いていくのを見ていると頬が熱くなる。
(こういう仕草がイチイチ様になるんだよな……)
嫉妬と惚気半分にそんなことを思う。

アーチャーは外では窮屈なスーツでいるせいか家に帰るとゆったりとした着物を着流している。
一昔前では大きな台を前に線引きしているイメージが強かった設計士職も今ではデジタル作業が当たり前なので来客もある事務所ではスーツでいる方が良いのだそうだ。
コタツに資料らしい紙を広げてああでもない、こうでもないと頭を捻る様子は宿題に困る子供のようでちょっと可愛い。
「そろそろ片付けてくれよ、鍋も沸騰してきたしガスコンロ出すから。」
ポスンと頭の上に野菜がこんもりと乗ったトレイを乗っけてやると、アーチャーはそれを見もせず器用に持ち上げてコタツの空いた場所に置いた。
「ふぅ……」
「目薬いるか?」
「いや、大丈夫だ……。コンロは私が出すからお前は鍋を見ておけ。」

一日中パソコンとにらめっこするせいか、仕事から帰るとよく目頭を押さえて眉間にしわを寄せている。
立ったままアーチャーの背後に回り覆いかぶさるようにクニクニと眉間をマッサージしてやると、ボスッと足に後頭をぶつけてくる。
あんまり気持ち良さそうにリラックスしているものだから、つい悪戯心が湧いてきてそのまま触れるだけのキスをかましてやる。
少し驚いた様子だったアーチャーだが、すぐに台所のコンロで凄い量の湯気をたてている鍋を見て俺を小突いてきた。

今日は藤ねえは新年会とかで夕飯はいらないらしい。
最近よく来ていた遠坂とセイバーも今日は二人で新しくできた中華料理店に行くとかでこない。
桜はここ半年はウチには滅多に来なくなったけれど、慎二との仲もうまくいっているようで安心だ。
そんなわけで久々の二人っきりの夕食。
貰いものの牡蠣で土手鍋を作っている。
牡蠣の他は山盛りの野菜と豆腐、土鍋の縁に土手状に味噌を塗り、野菜の煮え具合を見ながら少しずつ溶かし出す。
「「いただきます。」」
二つ重なったそれもいつものことでさっさと箸を伸ばす。
ほっこりと湯気を立てる牡蠣は絶品で、野菜もしっとりといい味に煮えている。

「ん、やっぱり鍋は良いなぁ。」
「士郎、野菜は食べているのか?」
「最初は牡蠣から食べたかったんだよ。そういうお前はさっさと牡蠣食べないと全部食うぞ。」
軽口をたたきながら食べる。
普段は滅多に口にできない甘ったれた台詞を吐けるのもこんなとき以外に無い。
「あ、アーチャー、それ取ってくれ。」
差し出した椀にアーチャーがよそよそと野菜を盛ってくれる。
「士郎……」
「はいよ。」
促されればおたまで汁を掬い入れてやる。
考えていることは大抵一緒なのでお互いに手を出し合っての食事だ。


「この後どうする?」
「決まっているだろう?」
あらかた食べ終えたところで一応の確認を取った。

鍋の残り汁は栄養の宝庫だ。
野菜と豆腐と牡蠣ばかりではお腹もなかなか膨れないが、ここにご飯を入れて味噌雑炊にすれば一石二鳥になる。
「ん、美味しい……」
「飲むか?」
アーチャーが淹れてくれた熱々の玄米茶が香ばしい香りで食欲を更に誘う。

「「ごちそうさまでした。」」
始めも一緒なら終わりも一緒。
二人並んで流れ作業で食器を片付けてしまえばまだ時間は8時前だ。
普段見ないバラエティ番組をつけてみるものの、どうにも落ち着かない。
「ふぅ……」
もう3煎目で少し薄い玄米茶を啜りながら吐息をつく。
「士郎、もう少しで風呂が入るぞ。」
「わかった。」
ごそごそとコタツをぬけだす。
暖かいコタツから出ると途端に寒さが身体を取り巻く。
裸足で跳ねるように廊下を走り、さっと部屋から寝巻きをとってくる。

「アーチャー、入ってるか?」
「ああ、早かったな。」
脱衣場から声をかければザッという水音と一緒に返事が聞こえた。
生ぬるい湿気に助けられて勢い良く服を脱ぎ捨てると風呂の引き戸を開ける。
もやんとした湯気の向こうに、湯船にゆったりとはまるアーチャーが見える。
「あ……たかーっ!」
ザバンと掛け湯をすると冷えていた体の末端が嬉しそうにジンジンする。
「こら、湯を無駄にするな。」
パシャリと頭に湯をかけられて、ベッと舌を突き出してやる。

「そっちを向け。」
頭をシャンプーであわ立てているといつもどおりの言葉。
素直に背を向ければごつい指の腹がシャカシャカと泡をはじけさせていく。
アーチャーはどこで覚えたのか、とにかくこういうことが上手い。
どこの散髪屋でだってこんなにトロンと蕩けてしまいたくなったことはない。
「あー、そこそこ……」
「む、ここか?」
「うん、そこ……気持ちい〜」

シャカシャカシャカシャカ……ザーッ
頭上からのシャワーを目を閉じて受ける。
泡がすっかり洗い流されてしまうと頭がすごく軽くて気持ちが良い。
「ほら、出て来いよ。」
腰掛けていた檜の湯椅子を譲って、見よう見まねでアーチャーの色素の薄い髪を泡立てていく。
「痒いところは?」
「いや大丈夫だ。」
シャワーですっかり泡を落とすとアーチャーは慣れた仕草で落ちた前髪を無造作にかき上げる。
そんな単純な仕草に胸がドキッと大きく跳ねる。

「スポンジを寄越せ。」
交代してまた俺が座る背後にアーチャーが立つ。
商店街の福引で貰ったボディスポンジは少ない石鹸で泡立ち良く、俺以上に倹約家のアーチャーはかなり気に入っているらしい。
スポンジを泡立てる時独特のシュプシュプという音が途切れるとそっと背中に泡が乗ったスポンジが当てられる。
そのまま強すぎず弱すぎず、ちょうど良い強さでマッサージをするように背中を擦られる。
「うー……」
気持ちよくて意図せず漏れる呻きにアーチャーが笑う気配。
毎日一緒に風呂に入っては一日交代でお互いの身体を洗う。
はっきり言って普通じゃないけれど誰に言うわけでも見せるわけでもないから構わない。

シュクシュクッとスポンジをまた泡立ててアーチャーが俺を前向きにさせる。
耳の後ろから顎、咽喉、鎖骨と下がってくるスポンジが少しずつそこに近づく。
首筋から垂れる泡の雫もそこを避けるように滑り落ちていく。
「ん……」
ぷつっと立ち上がったそこをごく軽く掠められて思わず鼻にかかった吐息が漏れる。
アーチャーは至極真面目な顔で俺を泡まみれにしていく。
「……あ、アーチャー」
反対側のそれをまた掠められてアーチャーの肩にしがみ付く。

「また感じているのか、士郎?」
呆れるようにアーチャーが俺を見下ろす。
両腕をそのまま首に巻きつけてキスをねだる。
ちゅ、と軽く額に唇を落とされるだけで窮屈な胸と胸の間をスポンジが走る。
また少し下に下りて臍を擽られて腰を引くとアーチャーの左腕が腰を引き寄せる。
そのまま腰に、そして左足へと進んでいく。
左足を持ち上げられるようにして爪先まで泡まみれにされる。
右足も同じように泡にまみれていくけれど、アーチャーがスポンジを右手に持っているせいで内股を何度も何度も掠められる。

「士郎……」
促されて膝立ちになるとアーチャーの首にまた両腕を絡ませる。
スポンジは役目を終えて湯桶に浮かんで漂っている。
クチュクチュとアーチャーがその掌で泡を育む。
それがそっと俺の臀部に乗せられて、触れるか触れないかのギリギリで泡を伸ばされる。
本来は出口の筈の入り口をトントンと軽くノックされて、ふぅと息を吐く。
何度やっても、何度されても、そこに触れられるという行為は緊張を生む。
ぬめる指が周りのひだを伸ばすようにグニグニと押してくる。

「くふ……ぅ」
くすぐったい。
ヒク、と力みが抜けた一瞬を狙い済ましてアーチャーの指が潜り込んでくる。
毎晩弄られるそこはそれでも最初はこれが限界だというように指を締め付ける。
第一間接だけを飲み込ませてグニグニとそこをほぐしてくる。
石鹸のぬめりのせいで時折ヌプッと抜けてはまた潜り込んでくる。
そんなことを飽きもせず、ひたすら淡々と続けるアーチャーは凄い。

弄られ続ける俺の方は段々と反応を顕わにするものを堪えなくてはならず、四肢に妙に力が入ってしまう。
石鹸のぬめりで指がまた深く潜ってくる。
それと同時にもう一本の指が無遠慮に潜り込む。
「ひゅ……ひ、ぁ――あ…ッ」
息を急いで整えようとして逆に咽喉の奥で詰まる。
アーチャーの左手が俺をあやす様に背中をなでる。

こんなにトロトロに甘やかさず、いっそ一思いに串刺しにして欲しい。
そんな激しい思いが胸の中で渦巻く。
慎重すぎるほどの過保護が時々つらい。
もっとこの身体を酷く扱ってくれたって構わないのに。
アーチャーは決して手荒なことはしない。

半勃ちのそれが腰の揺らめきに合わせて揺れる。
薄い茂みからひょっこりと覗くものはアーチャーに比べて色も大きさも幼い。

二本の指がニュルッと奥まで潜り込んできて息を呑んだ。
これは身体を清めるための行為であって、この後の性交渉の為の下準備に過ぎない。
だからアーチャーは俺を感じさせるためにではなく、そこを清める為に淡々と続ける。
アーチャーがその気になれば俺なんかものの数分で泣いて請うほどまで高めることができる。
どこでそんな技を身につけたのか聞かないのは俺なりの意地のようなものだ。

「ん、は……ぁ」
首に回した腕に力を込めて、少しきつく抱きつく。
半ば勃ったそれがアーチャーの腹にひたりと合わさって、体の間で擦られる。
俺の身体を抱いていたアーチャーの左腕が離れる。
その意図を知って俺は弛緩していた両足にぐっと力を込めた。

ザァッと暖かい湯が降ってきて、それが両足の間からの吹き上げに変わる。
ヌルヌルと蠢く指が湯を取り込んでそこを中から泡まみれにしていやらしく音をたてる。
二本の指がグッとそこを押し広げて中にまで飛沫を引き込む。
体の中を洗われる感覚は同時に中に何かを押し込まれるようでもあって、なりふり構わず泣き出したくなる。

キュキッという音と共にしゃわーが止まる。
そのまま抱き上げられてざぶんと湯船に沈み込む。
アーチャーに向かい合うようにしてその胸板に凭れ掛かる。
頬が熱くて少しでも冷たいアーチャーの胸に押し付けて熱を逃がしてやる。
トクトクと早鐘を打つような鼓動はそのまま触れているアーチャーにも知れているだろう。
勃ちあがりかけていたそれがおさまったのを見計らってか、アーチャーが俺を抱き起こして湯船から出る。

ひんやりとしたタイルの感触が足の裏に馴染まず、足の指をいじいじと曲げたり伸ばしたりする。
一度脱衣場に出たアーチャーがバスタオルを俺にかぶせてがしがしと髪の水分を飛ばしていく。
少し伸びた前髪がふぁさっと目にかかって、軽く頭を振る。
「何だ、今日はやけに子供のようではないか。」
「たまには良いだろ。」
両腕を広げて促せば、やれやれとため息をついて体中の水分を手に持ったタオルで拭ってくれる。
「餓鬼が、はしゃぐな。」
「良いだろ別にィ〜」

アーチャーとはサイズ違いの浴衣を寝巻き代わりに、半纏をを羽織って廊下に出る。
遅れて出てきたアーチャーは浴衣一枚でふと俺を見下ろす。
「ふむ……」
いきなりアーチャーの顔が近づく。
反射的に目を閉じたものの、次の瞬間にはぶわっと体が妙な方向に傾いていた。

「な、何するんだよ!」
「いや、餓鬼は餓鬼らしく扱わねばと思ってな。」
「なにさ、俺は赤ん坊じゃないぞ!」
向かい合わせに抱き上げられたのは、いわゆる『だっこ』で18を超えた男がされるものじゃない。
そのままぎゃーぎゃーと喚くうちに自室にたどり着く。
殺風景な部屋には横幅のある夫婦布団が一組。
そこにぽてりと落とされてそのまま唇を吸われる。

「ん……コレ、ガキにすることか?」
「安心しろ、衛宮士郎という生意気なガキ限定だ。」
「は、ぁ……アーチャー」
顔中に音をたてて口付けられるだけでは足りず、両手で頬を挟みこんでその唇を奪ってやる。
ちゅく、と舌が絡む音に目頭がジィンと熱くなる。

いつもなら、こんなにはならない。
はあはあと息をみっともなく乱して、それでもアーチャーを引き寄せる。
両腕で、両足で抱き込む。
浴衣の肌蹴た太ももをアーチャーの少し汗ばんだ掌が這う。
吸い付くようなその感触がぞわぞわと背中を擽る。

「ん…ふ――ぁあ」
ぽろりとこぼれた涙をアーチャーが驚いた面持ちで見つめて、そっと唇で吸い上げる。
「どうした……先程から様子がおかしいぞ。」
「え、いや、何もないぞ――?」
言葉に偽りは無い。
またぽろっと零れ落ちる雫にアーチャーが眉間にしわを刻む。


「まったく……」
困ったようなその表情が誰かに重なる。


「まったく、本物の餓鬼だなお前は。」
俺自身がわけがわからないのに、アーチャーは子供をあやすように俺の頭を撫でる。
そのままごろんと俺の横に、二人揃って仰向けになる。
アーチャーという障害が無くなって電気が眩しい。
だからそっと横の男を見た。

「やらないのか?」
「今日一日くらいせずとも、明日すぐに消えるわけではない。心配するな。」
うっすらと口元に笑みを乗せるのを見てころっと転がって腕にしがみつく。
ほかほかと暖かい体の熱が恋しくて右手を分厚い胸に這わせる。
「6年か……」
「ああ、そういえば……」

明日は1月31日。
親父の日記、その最後の日付が……『1月30日』。
6年前のこの日、親父は逝った。
冬の月が綺麗な夜だった。

11年前、焼け跡から救い出された俺は衛宮の子になった。
5年間、一緒にこの家で暮らした。
最期の日、俺は親父の遺志を継ぎようやく本当の親子になれたと思った。

「あー、今日が命日だったっけか。」
この一年間――聖杯戦争が終わってからこっち、つい最近まで心に余裕なんてなかった。
街も、街の人も、全てが重い雰囲気を引きずっていた。
全ての責任が自分にあるようで、生き残ったことを自問し続けて精神的にボロボロだった。
それを支えていてくれたのが遠坂の元相棒で、今は俺のサーヴァントになったアーチャーだった。
アーチャーの正体に気付いてから、その申し出を受けるまで……俺はどう向き合えば良いのかよく分からなかった。
だって、未来の俺――だったかもしれないヤツだ。

けれど一緒にいるうちにその戸惑いも薄れていった。
今は全然違う個体だけど元は一緒だ。
お互いが考えていることが大体わかる。
表面に出せない希望とか望みとか、そういったものがお互いの間でだけは言葉にしなくても自然と気付くことができる。

あれは確か聖杯戦争が終わって、月が変わった頃だ。
教会の地下から衰弱死体が複数発見された。
見つけたのは教会の信徒、ボロボロになった教会を片付けていた最中だったという。
驚いたのはその後の報道で知った、その死体がかつてあの地獄から助け出された俺同様の遺児だったということだ。
セイバーと遠坂の話を符合させると彼らはあの英雄王のエサとして生かされていたというのだ。

俺だけが生き残った。
また、俺だけが……。
そして、自家中毒を起こして倒れた俺の枕元でアーチャーが俺をひたと見据えて言ったんだ。
『泣きたい時は泣け、胸くらいは貸してやる。』
泣くなんて考えもしなかった。
俺には泣く資格なんて無かった。
自分だけ生き残るという罪が赦されることなどありえなかった。
けれどアーチャーは言った。

『お前は十分救ったよ、今度はお前が救われる時だ。』

俺は聖杯を崩し戦争を終結させてもなお、あの炎の大地に黒焦げのまま取り残されていた。
燃え尽きて炭になってしまえばいつか芽吹く植物の糧になれただろう。
青々とした草木に生まれ変わることができただろう。
けれど俺はいびつな塊のまま転がっていた。
本当は青い空が良かった。
すがすがしい空気に包まれていたかった。
けれどそれは叶わない。
俺はただ一人生かされた。
生きなければならなかった。
ただ一つ――空っぽの体を抱えて。
ちょっとした風に飛ばされないよう、力の入らない手足を必死に焦土にしがみつかせて。
擦り剥けて血が滲んでも。
骨が砕け血が抜け落ちても。
生かされた俺は生きなければならなかった。
生きたいと願うと同時に、生きることで罪を背負わされた。

それをアーチャーは、救われて良いのだと俺に言った。

俺は、アーチャーの胸に縋って泣いた。

まるで子供のように泣きじゃくった。
その時の俺は、炎の中から助け出された時のまま、年の齢十にも満たない子供だった。
風化したはずのそこから漸く、助け出された。

とくん、とくん、と心地よい心音が聞こえる。
親父のことを思い出す。
あと3時間、日付が変われば親父のいない7年目。
まだぼやける目を擦って、ふとアーチャーを見上げる。
ぼんやりと天井を見上げているその輪郭をなぞる。

「落ち着いたか?」
頷けばアーチャーが俺を抱きこんで俺の方を向く。
いつも通りのすました顔なのに、目だけが心配そうな色。
「ああ……」
「ん、どうした?」
心配そうに眉を寄せるのを見て、ついつい笑みが漏れる。

近頃、アーチャーの表情の変化がバリエーションに富んできて、何となく嬉しい。
同じことを本人に言ったら「お前の方こそ」といわれた。
案外、自分がどんな顔をしているかわからないものだ。
「いや、親父が知ったら驚くだろうなーってさ。」
「むしろ衛宮切嗣ならば喜んだとておかしくはないだろう。」
「じゃあ両方だ、驚いてから喜ぶ。」

アーチャーが笑っているとわかる。
顔を見上げると前髪が額にかかっていつもより優しい風貌。
自分が至ったかもしれない未来。
確かめるようにその頬に手を寄せる。

「どうした?」
「ん、なんか……」
甘えたい気分なんだ、と口にはしなくても伝わる。

「あ」
ふと声を上げた。
「結局親父に言えなかったな。」
「何をだ?」
「ありがとうって。」
俺を見つけた時、親父は何度もありがとう、ありがとう、と繰り返していた。
でも思い起こせば命を救われた俺自信は親父にその言葉を言ってなかったんだ。
生き残ったことを、あからさまに感謝するには代わりの犠牲が大きすぎてそんなことは口にできなかった。

「士郎、明日は?」
「明日?学校はもう受験休みに入ってるしバイトも休みだから家にいる予定だけど。」
「ふむ。では出かけるか……。」
「え、アーチャー、仕事だろ?」
「なに、今日は休日返上で無理な仕事を終わらせてきたんだ。休みの一日や二日構わんだろう。」
さらりと言われて、それならと頷く。

「で、どこに行くんだ?」
「さしずめ、親不孝者が二人揃って墓参りだな。命日を忘れるなどずぼらも良いところだ。」
「アーチャーも忘れてたのか。」
「……生憎、私にはアレが冬だったという記憶しかなかったのでな。先程、お前に触れて思い出した。」

苦笑するアーチャーはぐいっと俺の顔を引き寄せる。
真正面の顔がフッと笑んで、俺の髪をくしゃりと乱す。
「5年も待たせてしまったのだな。」
「……?」
「私が凛に召喚されたのは2月1日の未明だ。」
「そう、だったのか。それで、5年って?」
「お前を救うのに5年もかかったということだ。」

アーチャーの大きな両手が頬を包み込む。
「寂しかったのだろう?」
「ば……馬鹿言え!そんなこと――」
言葉が途切れる。
寂しくないはずが無かった。
子供と言う域に嵌ったまま、独りでいることを余儀なくされた。
空っぽの体にたった一つの願を埋め込まれて。
親父の葬儀の後散々泣いた。
けれど生きていかなければならない俺はそれを打ち切って前を見据えざるを得なかった。
暖かく見守ってくれる人たちがいても、無条件に俺を守ってくれる人はもうどこにもいなくて、泣く暇も笑う暇もなかった。
寂しいと思う暇までも奪われた。

「私は……」
ぽつりと言葉を続けたアーチャーの目が俺を外れて天井に向けられる。
「私は寂しかった。」
「アーチャーが?」
「見返りなど必要ない。たった一つの願のためなら何を賭しても惜しくは無かった。しかし、英霊となって以降は本当に、何もなかったのだよ。」

その一瞬、フラッシュバックのようにその光景を見た。
赤色の荒野に佇む戦士は独り、燃える空の下。
周りには冴え冴えとした剣。
がらんどうの瞳は何も映し出すことはなく、ただ在るだけ。
ギシギシと軋んだ歯車のせいか起こる砂嵐も、マグマが吹き上げるような地鳴りも、何もかもが男にとっては無。
それが、アーチャー。

「召喚されここに来た時には既に感情すら擦り切れかけていた――お前を見るまではな。」
深い呼吸に上下する胸、そこに頭をのせて心地よい声に耳を傾ける。
「お前は救いようの無い馬鹿だった。無鉄砲で、考え無しで、がむしゃらに他人を救おうとしていた。誰より自分が救いを求めていたと言うのに。」
目が熱い。
瞬きをするたびにぽろり、ぽろりと雫が落ちてアーチャーの浴衣に染みを作る。
「一を捨てて他を救う、それが最も効率的な救済だ。それなのに、何故だろうな……お前が救われなければならないと思った。」

ぎゅ、と抱きしめられて息が詰まる。
「心底欲している救済を永遠に与えられない存在などあってなるものか。」
「すごい……エゴだな。」
「ああ、我ながらそう思った。しかし、士郎――お前が笑う。それが私には嬉しかった。やけくそじみた殺意よりは余程建設的だとは思わないか?」
「うー…ん、まあな。」
そう言って頷けばアーチャーが珍しくニッコリと笑う。
ふとそれが可愛いなと思ってしまって、あたふたと視線を逸らす。

「どうした?」
「なんでもない!」
「なんでもなくはないだろう、どうした、言ってみろ。」
言ったら逆に何を言われるかわかったもんじゃない。
ぷいっと横を向けばヘッドロックされてグリグリと締められる。
「わ、ギ…ギブ、ギブッ!」
加減されているとはわかっていても息苦しいのには変わりはない。

「あー、なんていうか、その……」
漸く締め付けが弱められ、ごつい手がまるで犬にするように俺の顎を擽る。
そのまま言ってしまえば間違いなく10倍返しされる。
第一オトコが可愛いなんて言われて嬉しいはずがない……俺だって嬉しくない。
ウンウン唸りかけて、アーチャーが何か言おうとする気配に気付いた。
「言わんのなら……」
「お、お前にそうやって思われてるのが嬉しかったんだよ!」
おまけでベッ、と舌を突き出してやればハトマメな顔をしてアーチャーが俺を凝視する。

「そ…うか、それは……私も、嬉しい。」
アーチャーが頬を染めてる。
珍しい――というか、初めて見たかもしれない。
やっぱり可愛い。
ムギュッと抱きしめてやればぎこちなく背に手が回される。
アーチャーの熱は心地よくて、逆らわず目を閉じた。

そのまま夢を見る。

赤い大地に横たわる俺はすこしずつ崩れていく。
赤色の空は次第に闇に染まって雨が降り、新たな薄紅の後目も覚める青に変わる。
潤いを得た大地に草木が芽吹き、花が咲いた。
崩れたはずの俺は両足でちゃんと立っていて、傍にははにかんだ笑顔のアーチャーがいた。
夢だとわかっている。
けれどそれは赤色の思い出の終わりを告げるもの。

そして、新たな想い出を編む時の始まりを知らせるものだった。